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「勉強が趣味」という社会人が抱える、ある一つの問題点

 社会人の中には一定数、趣味で勉強を初めるという人がいる。フランス語をやったり、マイナーな検定試験を受けたり、テーマはまちまちだ。年齢層もバラバラで20代もいれば、定年間際という人もいる。

 筆者も実は一時期勉強が趣味だったことがある。教養本から学術書まで、徹底的に読み尽くした。数学や物理など、難易度の高いジャンルにも挑戦した。おかげで随分と教養は付いたし、頭が良くなった気分になった。

 しかし、筆者はある時から、こうした趣味の勉強に対して虚しさを覚えるようになった。社会人が趣味を勉強にするのはある一つの問題点をはらむのだ。それは時間が食われるといった表面的な話ではなく、もっと本質的な問題点である。今回はそういった話である。

幸福感は人との繋がりに依存する

 人間の幸福感は人との繋がりが最大の要因だという。年収や権力はあまり関係ないらしい。意外にも思えるが、確かに思い返してみると、この点は徹底して当てはまっている。幸福な青春時代と言えば普通は友達に囲まれて楽しそうに笑っている様子を思い浮かべるだろう。学校で孤立している人間が青春を楽しんでいたという話は聞いたことがない。学校の偏差値も決定的な影響はなさそうだ。

 莫大な権力と富を得ている老人が時に幸福感が低そうに見えるのは、一言で言うと孤独だからだ。会社で役員レベルに出世した人間を見ていると、このような例は枚挙に暇がない。出世すると部下はゴマすりを初めるし、同期は離れていく。厳しい競争社会を長年経験しているので、人とも容易に打ち解けられない。権力を持っている間は近寄ってくる人間も、内心ではイヤイヤ付き合っていることが多い。こうして出世すると不幸になるという意外な現象の理由が説明できるわけである。

 これは経済面でも言える。成功して巨万の富を得た人間は人から妬まれるし、金の無心をされるかもしれない。経済感覚のギャップが原因で話が合わなくなっていくかもしれない。この手のリスクを体現したのは大谷翔平だろう。金持ちの幸福感がある程度から頭打ちになるのは、こうした孤立リスクが原因だと思われる。

 ステータスは高すぎても低すぎても不幸に繋がる。それは人との繋がりを作りにくくなってしまうからだ。IQも中の上が一番有利だという。「充実した日常」といって思い浮かぶのは多くの人間にとって他者に囲まれている状況だろう。マイルドヤンキー幸福論も、田舎のスローライフに対する憧れも、結局は他者との親交が作れるかに依存しているように思える。

受験勉強が青春にならないわけ

 高校時代の青春といったら何を思い浮かべるだろうか。真っ先に浮かぶのは男女の恋愛だろう。いわゆる「リア充」的な高校生活だ。他にも部活が青春という人もいるだろう。昔ROOKIESというドラマがあったのだが、あれも青春の一類型である。

 ところで、受験勉強が青春というイメージは世間で持たれていない。これはちょっと不思議だ。甲子園は頂点を目指す若者のチャレンジだが、大学受験だって同様だろう。野球を極めるのが奥深いように、受験を極めるのも奥深い。中高6年間を一つの目標に向かって全力投球するという点で甲子園も東大受験も同じ性質を持つ。進学校の部活が緩いのも、受験勉強が部活の代わりになるので非行防止の機能を果たすからである。

 ところが、受験勉強は完全には青春の代わりにはならない。大部分かぶってはいるものの、ある一点が欠けているのだ。それは「仲間」である。受験勉強は最終的には個人戦であり、仲間と協力して頑張るといった雰囲気のものではない。先輩後輩の指導や、同級生との合同練習といった要素は極めて少ない。勉強仲間を作っても、合格率はむしろ下がってしまう時もある。合格不合格が明確に現れ、同級生の進路はバラバラになる。これがスポーツとの違いだ。

 集団競技はもちろん、個人競技であっても部活レベルであれば仲間との協調がメインテーマになるはずだ。部活青春ドラマはプロ入りすることを目標にしているわけではない。そうではなく、最終的に甲子園の土を持って変えることになったとしても、仲間と同じ目標を共有して分かち合うことに意味があるのだ。スポーツもプロ入りを前提とするなら受験勉強に近い要素が出てくるだろうが、普通の部活青春であれば、問題なく仲間との繋がりを楽しめるのである。

社会人の勉強は孤独に向かう

 それでも学生の間は勉強するのも悪くはない。社会との繋がりという要素がかなり強いからだ。学校や塾は勉強しにいく場所なので、そこで社会との繋がりができる。勉強を一生懸命やる生徒は尊敬されることが多いし、人に勉強を教える機会もあるかもしれない。大学に合格してで学歴を手に入れるのも、社会への登竜門という性質を持つ。

 大学生は勉強しなくなるかもしれないが、それでも孤独にはなりにくい。大学生は似たような環境に置かれているので、だいたい興味を持つ内容は揃っているし、人間関係の自由度が高いため、同好の士を簡単に見つけられるからだ。筆者も学生時代は色々な賢い友人と、学術系の議論や天下国家を論じたりと、充実した日常を送っていた。本当にあの時代は幸福感がMAXだったと思う。

 一方、社会人になるとそうはいかない。まず職場は勉強しに行く場ではない。社会人の勉強は学生時代と違って、社会経済上の実態を伴わないのだ。基本的に業務外の趣味ということになるが、こうなると人によって興味はバラバラなので、話を合わせるのは難しい。

 社会人にとって勉強は相性の良い気晴らしではない。業務で脳のエネルギーを使うので、私生活に頭を使う余力は残っていないことが多いし、勉強は時間がかかるため、この点でも良くない。社会人向けの楽しみとして適しているのは、時間と頭を必要としない活動だ。こうした事情により、暴飲暴食やキャバクラ・風俗といったものに楽しみを見出す人間が増えてくる。

 社会人は勉強することがあまり求められていないので、勉強をすることが社会の評価に繋がることは少ない。営業成績で一番を取れば表彰されるかもしれないが、ロシア語検定を取っても「暇だねえ」で終わりである。基本的には自己満足の世界だ。もちろん幸福というのは自己満足の世界なのだが、社会人の勉強は人との繋がりを生まないので、独りよがりになってしまうリスクがある。

 学生時代の勉強は社会と繋がる方向にベクトルが向かっていた。社会人の勉強はむしろ社会から目を背ける方向に向かう。学生が勉強すれば周囲から尊敬の眼差しを受けたり、良い大学に受かってキャリアに繋がったり、同級生と勉強会を開いたりと、他者と交流する方向に向かう。社会人の勉強の場合は周囲の理解を得たり社会的達成に繋がる可能性が低く、内向き志向が極めて強い。突き詰めて言えば、読書やスマホゲームの延長線上だろう。

社会人の勉強を実りあるものにするには

 こうした問題点を解消する方法はあるだろうか。大きく分けて3種類の解決法が存在する。

 1つ目は仕事に関係ある勉強内容をなるべく選択し、社会経済上の実体に勉強が少しでも反映されるようにすることだ。仕事に関係のある資格であれば、名刺に書けたり、同僚と勉強トークで盛り上がれたりするかもしれない。もちろん研究者は勉強するのが仕事だし、医師やエンジニアといった高度専門職は職場で勉強会などを開く機会は多いだろう。本を出版したり、学会で発表している人間もいる。普通のサラリーマンはこうした知的専門職のようには行かないだろうが、英語・会計・ITの三本柱を中心にすれば少しでも実になる勉強ができるだろう。実のところ、仕事関連の勉強はキャリアに関係する活動の中で(転職活動を除けば)唯一会社の支配下ではなく取り組めるので、効用は高いだろう。

 2つ目は何らかの外部のコミュニティに参加することである。筆者は社会人MBAに参加している人と飲んだことがある。業界や年齢はバラバラだったが、皆仲間ができていて楽しそうだった。孤独に勉強するよりも、やはり同好の士で集まってワイワイ楽しむ方が幸福度は上がるのではないかと思う。定年退職後の俳句のセミナーなども似たような効果があるかもしれない。筆者の周囲には夜間ロースクールに通って司法試験に合格した人物も知っている。その時代の仲間とも交流があるようだ。こうした活動は職場の論理から見ると無意味なのかもしれないが、サードプレイスとして有効かもしれない。

 3つ目として有効なのはインターネットだ。筆者が会社で良く見ていたサイトに「高校数学の美しい物語」や「歴ログ〜世界史専門ブログ〜」がある。この手のサイトは普通に企業に勤務している人間が趣味で書いていることが多い。間接的な形かもしれないが、自分の作ったサイトが誰かに読まれるというのは、ある種の人との繋がりであり、社会的な活動だ。もちろんこうした専門性の高いサイトだけではなく、単純な勉強ブログでも良い。更に言うと、雑記ブログやネット小説であっても勉強した内容は活かすことができる。筆者のnoteも間違いなく過去の勉強の成果が生きている。インターネットはしばしば何者にも慣れなかった人間の吹き溜まりと言われるが、緩やかな繋がりが作れるという点では優れているのである。

最終的には「他者」に行き着く

「勉強が趣味」という社会人は周囲から奇異の目で見られることが多い。筆者の知る限りでも、東大数学科の修士課程を出て大企業に就職し、高等数学の独自研究を続けている人間がいるのだが、完全に変人扱いである。そのレベルは極めて高いが、学生時代のように周囲から尊敬されるわけでも、研究室で評価されるわけでもない。業務に穴を開けない範囲で家で勝手にやってください、で終わりである。社会人の趣味としての勉強は極めて内向きな行為であり、性質として読書に近い。

 中には孤独に勉強を続けて仙人のような暮らしを求める人間もいるかもしれない。数学のように紙と鉛筆で可能な学問であればなおさらだろう。しかし、そのような人物であっても最後は人間との繋がりに行き着くようだ。

 例えばグレゴリー・ペレルマンが挙げられる。彼は人嫌いであり、自宅からほとんど出ないで数学の研究を続けていた。彼は世紀の難問であるポアンカレ予想の証明をネットに投稿し、大変な栄誉を受けた。証明を自分一人の胸にしまっていくことも可能だっただろうが、人嫌いのペレルマンも最後は社会に自分の発見を広める方向に向いたのである。

 暗黒面として挙げられるのはセオドア・カジンスキーだ。またの名をユナボマーという連続爆弾魔だ。彼は優れた数学者だったが、途中で社会が嫌になり、山奥で隠居状態になっていた。1人で数学の研究をするには理想的だったかもしれない。それでも彼は連続爆破事件という形で社会に自分の意見と存在感を反映しようと目論んだ。彼もまた歪んだ形で社会に向かったのである。

 あらゆる活動の充実感は最終的には社会や他者と言ったものに行き着く。これは人間が社会的動物である限り、避けようがない宿命だ。筆者がスマホゲームといった趣味にあまり意味を見出していないのは、社会や他者との繋がりを生む要素が全く存在しないからだ。囲碁とか将棋であれば趣味として交流ができるし、受験勉強であれば将来へのステップアップという要素を持つ。スマホゲームは将来に渡って人間との関係に繋がる要素が欠如しているため、いくら極めても最終的な充実感に繋がらないのではないかと考えている。

 先程の在野数学者の人は最近はアカデミア関連で活動を行っているらしい。残念ながら報酬をもらう活動は会社に禁止されているので不可能だが、何らかの形で数学に携わることは可能のようだ。やはり自分の知見を誰かに知ってもらうというのは嬉しいことだし、最終的な目的地は他者との交流に繋がる。人間の幸福感の構造は意外に単純なのかもしれない。

 

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