大文字の他者と構造主義

こみいった世界に入るのは恐れなくて、いい。
そういう世界の典型的な失敗を知るといい。
現実的にならないときに恐れというのは、本領につい入り易い。

学問出来ない理由を、解決出来る範囲の助力はしてみよう。

客観性を疑うとか以前に、客観性とは何か分からないそういう、ひと本当のところ、居るよね。
自分に腑に落ちた。
そうやりまくる。
関わりない事を未然に知れないと、知識って意味薄くなるよね。
ひろゆきさんも、まあそういう事に発言する事は多いよね。
全面的とは言わなくても、そこらへん共感は、示せる訳。
経験するまえにちょっと考えようよとか、そういうことはね。

仏陀もそういう事は伝えてるね、まあ。
仏教の目上は、そういうこと教えたり、反省みたいなのは予めする様に、して、行動してから過去をふりかえるのは、なんていうかもう、失敗してる場合あるよねと。

宗教的にそうやって、傷つくことしたら、傷ついちゃう側にも成るよねという、道徳に収まってる間は、良くても、いや本当に良くても、他意はないよ、本当によい場合はあって、その先、やはり弱肉強食になって来ましたと、そういう場合を考えて、この例は実際ちょっとあるし、都会とか発展はここを抱えるね。
伊集院静さんの言わんとするのは、大人に成ってからの苦しみには対策しといて、踏ん切りつけて、大人として葛藤する分には社会は認めるよという、ことをメインに言ったりしてて。
かりにそっちの問題は大きくても、進むさきの否定は、後をやり難くするわけ。
特に賭博から、それを痛感する人も世の中、多いのかも知れない。

相手は相手の世界持ってるとか。社会の構造は何度試しても、ある程度は同様に成るとか。
そこを分からないと理性的に説明されても、納得しようと、しなかったり、へと発展って、成る。
台湾の有名人みたいな政治家いるよね。
ちょっと助けるとしたらここかな。
具体的にすると、かれの周りのひとは、そこを理解示そう、と、出来なかった。
不可解さ抱えてしまった。原因を単純に捉えて、いて、それを自分にされてしまった。自分なりに研究はした。と。
つまり、その人達は、摂理とかより、手近に原因を見つけて、学問に入れなかったと。
閑話休題。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。