見出し画像

軽井沢とはなんぞや

 軽井沢の建築物に関するリポート課題があった。

 誰もが知っている軽井沢。宣教師たちに始まる国際的な避暑地としての文化的背景を持ち、自然と気候に恵まれ、首都圏からの交通アクセスもよく日本有数の観光地の一つでもある。
 田舎暮らしの私にとっては画面の向こう側の存在だ。
 だが、リポートを進めていっている間に、ふつふつとある考えが浮かび上がってきた。

 「ここと、同じじゃない?」

 春の芽吹きから新緑の美しさ、夏は適度に涼しくて、秋には紅葉が、そして冬は静寂な雪景色、鳥のさえずり、風の音、葉が揺れる音、

 これら全て、私の住む場所にある。

 薪ストーブ?うちにはないけど、近所にはご愛用の方もいる。
 窓の外に広がる景色を取り入れる借景という技法は、軽井沢の別荘建築の魅力の一つだが、うちの窓には当たり前に広がる、おそらく隣の家もその隣の家も、ここら一帯、借景祭だと思う。

 「ここと軽井沢って何が違うんだろう?」

 その疑問を解決すべく夫と軽井沢旅行に行ってみた。初めての軽井沢だ。
新幹線に乗って駅に降り、歩いて、泊まって、ドライブして、一通りの所を巡った。そもそも一年に一度するかしないかの旅行者なので、どこに行っても新鮮で楽しくなってしまう。だから、軽井沢もいつものように楽しく、素敵な旅行の時を過ごしてしまった。
 ただ、朝にホテルの窓から、遠くの山の霞の中に、ぽつぽつと光る別荘らしき建物の屋根がいくつか見え、その光景に、自分には感じることができない何かがここにあることを伝えられた気がした。

 「違いがわかる男の~」というキャッチコピーが昔あった。要するに、自分はこの違いが判る人種ではないのだろう。スイーツなんて特にそうだ。何を食べても平等においしい。

 旅行の途中、行ってみたかった国立西洋美術館にも立ち寄った。上野公園に入った途端、東京文化会館との対峙に圧倒された。畏怖という感情だった。コルビュジェが好きなので、国立西洋美術館に足を踏み入れたことそのものが嬉しかった。ただ、では、そこの美術作品がどうだったかというと、実のところよくわからない。美術は、いつでもわからないのだ。

 いつか、わかるようになるのだろうか。
 昔、父親が「歳をとったら花鳥風月だ」と言っていたが
 私にもわかるようになる時が、はたして訪れるのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?