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日記3/10 皆のボルヘス【伝奇集】、私だけの【不死の人】

終焉が近づくとき、もはや追憶のイマージュはのこらない。
のこるものは言葉だけである。

「不死の人」J.L..ボルヘス、篠田一士訳

本好きにとって、言葉は重要だが
それだけではなんだか分からないのが上記の文章である。


古本屋に入り、
出版年もサイズもジャンルもバラバラとした
積まれた本からお宝を探していると
J.L.ボルヘスの「伝奇集」(1975,集英社, 現代の世界文学)を見つけた。

今でこそ
岩波文庫のある本屋をあたれば
どこへいっても置いてある文庫本の一冊だ。

内容は短編集で
ジョジョの岸部露伴シリーズみたいに
「些細な不思議が恐るべき謎へ繋がる」ものや
架空の不思議な世界や神話にまつわる
迷宮や図書館の話など、
いろんな癖のあるファンタジーが詰め込まれている。

冒頭の「不死の人」も
不死の都を求めて、暗黒の迷路の王国から
幾何学的でナンセンスな建築に溢れた
不可思議な宮殿を彷徨う話である。
そしてギリシア作家のホメロスに関する
驚愕の事実が明かされる。

アルゼンチンの小説家ボルヘスは、
・幻想文学の鬼才
・ラテンアメリカ文学の代表
・ポストモダン文学へ影響を与えた大作家
などと紹介され、日本での人気も高い。

だからこそ文庫本がどこにでもある時代
四六判サイズを手に取るのは初めてで
名作なのは重々承知していたから
一冊買って読んでみた。

この本の内容でよく知られる話は
「バベルの図書館」だと思う。

これらの争う余地のない前提から、彼は図書館がばらばらでなく総体であって、その本棚は二十あまりのあらゆる可能な組み合わせ(その数は厖大ではあるが無限ではない)を蔵していると推論した。
言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。
そこにはあらゆるものがある。

バベルの図書館

一つの部屋には32冊の本が棚に置かれており、
司書たちの寝室やトイレへ続く扉と、
他の全く同じ造りの閲覧室へと続く螺旋階段がある。
同じ本は二冊となく、司書ははこの図書館で一生を終える。


作中で
この図書館は天体に例えられる。

つまり文字の組合せは有限だから、
この図書館は無限ではないけど
所蔵する本の冊数や広さは膨大なのだと。


一方で

私の買ったこの古本は
バベルの図書館には存在しない本だ。

同じ本は二冊とない。
だから既に文庫本が流布した令和に
この大判の1975年版は必要ないだろう。

それでも私は後者を選んだ。
古本屋の中で出会っためぐり逢いと
その場で読みたいという衝動ゆえに

彼の描いた幻想の外側に立つけれど
本との出会いもまた、ファンタジーだ。


「不死の人」をはじめ、ボルヘスは
物語にあえて矛盾を組み込んだりする。

語り手は、
そのときそのときで真実を記しているつもりだが
見返すとなぜか、矛盾やら文脈がおかしいことも認める。

追憶のイマージュは崩れ
あとには真実を描いたはずが
幻想的でおかしな言葉が残るばかりである。

文脈がおかしい時点で
現代文の問題では出しづらい話ばかりだが
私は大体雰囲気で読んでいるので、
幸いに、それもまた幻想入りだねと楽しんでしまえる。

冒頭の文章に対しても
ボルヘスは後書きを付け加える。

わたしにはカルタフィルウスの物語は認めがたいものである。

「終焉が近づくとき、もはや追憶のイマージュはのこらない。
 のこるものは言葉だけである」

言葉、おきかえられ、切断された言葉、
かずかずの作家から借用した言葉。
———これが時間と世紀が彼に遺した貧しい施物であったのだ。

「不死の人」J.L..ボルヘス、篠田一士訳

貧しい私は
新刊でなく古本を漁り
言葉を借用して日記を書く。
だから時々筋道が逸れたり、
時には、文章が破綻して
何が言いたいかも分からない。

それでも唯一正しいのは、
この文章が日記であること。

日記の日付が嘘偽りない限り
時間と世紀が指標となって
私に貧しい語彙で日々ナンセンスな文章を綴っていた証を
ここに遺してくれているのだ。

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