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【短編小説】ブルーベールに集う(4)

 ソーダ水のようにしゅわしゅわと泡が上っていくのが見える。
口の中に潮水が流れ込み、息ができない。

 沈んでいく体でもがいていると、目の前でしぶきを立てながら何かが水中を割いた。その一瞬、棒のように見えたそれにしがみつくと、浮き上がり、白く光った先で視界が開けて息が出来るようになる。

 肩で激しく息を切らしながら辺りを見ると、そこはやはり海であった。眩いほど鮮やかな真っ青な海の上で白い光が跳ねている。正面を向くと、しがみつくパドルを華奢な腕一つで持つ老人と目が合った。次の瞬間、ぐらりと頭が回転し、宙を舞い、船の中へと体が落下し衝撃が走った。

「青年よ、大丈夫かね?」

 布切れを羽織り、靡く羽毛のような髪に白い眉をふさふさと生やした老人が、いてぇえ、と痛みに耐える想に尋ねた。

「ええ、なんとか。もう少し優しくしてほしかったけど。」
「週三日勤務のうち、本日、わしがエリア部隊の当番であったのが君の命運を変えたのだよ。」
「エリア部隊って・・・?」

 老人の背後を見ると巨大な壁が聳えている。
透明なその壁には宇宙服のような真っ白いスーツを着た者たちが銃を持って歩き回り、最上階で椅子に深く腰かけた者が何やら装置を操り、指令しているようである。

壁の周辺ではいかつそうな男たちが乱れることのなく三列になって泳ぎ回り、「エトランゼ」への警戒態勢を取っている。

「あまり見るでない。気づかれたらまずいぞ。」

 そう言って老人は想の背中を押し、身を隠すように合図した。ネクタイを乱暴に取り去り、湿って重くなったジャケットを脱ぎ、それを覆い身をかがめた。

「あれは何なんだ?」

「ブルーベールを守るための司令塔じゃ。東西南北の海域にあの壁は存在している。雇われているわしらは本来であれば、君らのような、なんらかのトリガーによってここに来た「エトランゼ」を海の奥底に沈めなくてはいけないのだよ。餌に釣れられたようにしがみつく者はみな、侵略しようとばかりに欲望まみれな顔をしておった。しかし、君はそんなふうに見えなかった。」

「それで助けてくれたのか。沈められていたら、ジエンドだったな。」

「ジエンドダッタナ。ジエンドって?」

「死んでたってことだ。エトランゼ、よそ者ってことか。」

「左様。君も何らかのトリガーによってこちらの世界に来たのだろう。」

「ブルーベールを飲んだからだな。」

「こここそ、ブルーベールなのだよ。」

「じいさん、助けてくれたのはありがたいけどさ、エトランゼを排除するのが仕事なんだろ。俺を助けて危ないんじゃない?」

「それなら心配無用。週三日、真面目に勤勉に働くじいを疑う者などおらんのだよ。」

「なら、よかったよ。」
 
 真っ青な海を進むうちに、壁は遠ざかり、やがて見えなくなっていった。想はジャケットから顔を上げ、息をついた。波が押し寄せる海原というよりは、そよぐ一面の青い草原に波紋が描かれながら、潮風が肌を通り抜けていく。鏡のような静寂なその海は想の故郷である松山から見える瀬戸内を思わせた。

「なんだか、瀬戸内みたいだな。」
「はて、セトウチ?」
「いや独り言だよ。俺の故郷さ。」

 そう言いながら、想はワイシャツの胸ポケットに手を伸ばし、タバコを探したが、ない。ため息をつき、体勢を崩し、あぐらをかいて果てのない海を眺めた。老人はパドルをこぎ続け、ゆったりと進んでいく。

「そういえば、青年よ、君には概念はあるのかね?」
「概念・・・。名前は想。丸野想。丸君、丸さんってよく呼ばれてたな。年は三十五になる。デザイン会社で働いてて性格は社交的な方かな、趣味は読書と酒を飲むことで、好きなのはテキーラ。あと、とにかく女にモテる。」
「なるほど、マルサン。」
「じいさんはなんて呼べばいい?」
「わしに名などない。概念は存在しない。」
「ふーん。そっか。」
「マルサン、これを与えようか。なんだか手持ち無沙汰のようだからな。」
 
 老人はくしゃくしゃになった茶色の箱を想に渡した。開けられた箱を覗くと、三本のリトルシガーとライターが入っている。いいのか?と尋ねると、老人は目を細め、与えようと頷いた。早速、想は葉巻を指に絡ませ、火をつけようとしたが、思い止まりやはり貴重なそれをポケットにしまい込んだ。

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