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京都市学校歴史博物館に行ってきましたよ!

こんにちは、はくれぽ!です。

お久〜〜〜しぶりのレポートは、京都にある京都市学校歴史博物館からです。

今回は展覧会というよりも、博物館として興味があったので見てきました。

こちらの施設は、京都市立開智小学校を改修し1998年(平成10年)11月に開館した博物館となります。
なので、すごく普通に街中に溶け込んだ建造物で、「本当にここか・・・?」とちょっと不安になるような場所にあります。

経路選択をミスったので背面から一周してようやく正門へ辿り着く。

京都市学校博物館は、京都市の学校に遺された歴史資料や、卒業生などが学校に寄贈した美術工芸品を収集・保存し、展示を行っている施設です。

京都は、幕末の動乱による荒廃・明治維新での東京奠都(新しい都を置くこと)によって、衰退の危機にさらされていました。
近代化政策が行われる中で、特に人材育成が必要と考えられ「教育」が重視されます。

そこで明治2年に日本で最初の学区制小学校が64校の「番組小学校」が誕生します。(政府の「学制」公布は明治5年8月)
※京都のまちは1000年以上前からできあがっていて「町組」と呼ばれていました。町組は町の力の強弱があったので、明治時代に再編され、それが「番組」とよばれた。

京都においては、明治元年から教育計画の樹立に努め、翌年には学区制の企画によって、六四の小学校を開設し、区内住民の財政協力によってこれを経営する方法を始めていた。

文部科学省 学制百年史「一 幕末維新期の教育」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317556.htm

「区内住民(町衆)の財政協力によって」というのは熱いポイントですね。

高麗門形式の正門(1901年(明治34年)築)
入口は旧成徳小学校の講堂玄関が移築されている。
入口にある元成徳小学校の玄関車寄。京都市現存最古の学校建築物(1875年(明治8年))

元が小学校ということもあるからか、肩肘張ったところもなく受付の方もとても気さくな雰囲気でした。
こういう場所は現金のみのところが多いですね(博物館・美術館は施設によって設備の差が大きいので、いつでもどこでも現金は用意しておくが吉)。

展示室は、第1〜第4展示室まであり、今回は時間の都合上、1・2のみを見ました。展示は以下。

常設展示(第1展示室)
・学校のたからもの〜京都市立学校所蔵の名品
・ちょっと昔の学校(映像ホール)
1、幕末の学校
2、小学校と市民の情熱
3、町組会所兼小学校
4、明治時代の教育
5、教科書の部屋
6、文明開化と学校教育
7、伝統産業と学校教育
8、幼稚園の魁
9、大正・昭和初期の京都の教育
10、戦時中の教育
11、戦後の教育
12、学校給食のあゆみ
13、近代京都の木造校舎

企画展示(第2展示室)
きらめきはぐくむ京都の学校と伝統工芸 西陣織・京友禅・京焼
(展示期間:2023年9月14日-12月17日)

第1展示室は常設なので、これ!という目立った展示があるわけではないので、個人的に気になったものをご紹介していきます。
※撮影可の資料のみ

その前に。展示室に入ると左手からぬぅっと年配の男性が現れ「映像ホール」でこの博物館の成り立ちの映像を見ることをすすめてくれます。
ホールといってもかわいらしいサイズで、椅子が小学校の椅子みたいで、ちょっとした社会見学気分です。
室内の関係者はこの方のみのようでした。

「天満神」と「孔子神」

二学神 姉小路公義(あねがこうじ きんとも)筆(複製)〈明治3年(1870年)〉元春日小学校蔵

「天満神」=菅原道真公
「孔子神」=孔子
この掛軸は小学校の始業式の時にかけられていたそうです。

町衆たち

幕末の「寄合」(パネル) 森 寛斎・西谷良圃・幸野楳嶺・遠藤茂平・熊谷直行・廣澤真臣

やがてくるであろう新時代に向けて、これまでの寺子屋教育の近代化について議論が交わされた。
彼らのような町衆が「教育大事!」って議論をしてたのでしょうか。


番組小学校の役割

学校火消しの「まとい」

当時の小学校は子どもが勉強するだけの場所ではなく、現在でいうところの区役所・保健所・交番なども兼ねていました。
また学校の屋根の上には望火楼が設置され、火事の際には鐘を鳴らして知らせたそうです。
「まとい」は火事場で「ここで火を消してます!」という目印に使われ、小学校には消防道具などを入れる倉庫や、消防士の部屋があったとか。
昔の小学校はめちゃくちゃ多機能ですね。


勉強の道具

算盤(実物) 元龍池小学校蔵

そろばんらしいのですが、珠の数も形も見たことがないものです。
調べてみると中国のそろばんと似ています↓↓↓

上が中国版 https://ja.wikipedia.org/wiki/そろばん より(中国の項で「なお三国志の武将、関羽がそろばんの生みの親とする伝説があるが」とあるがもちろん伝説。偉大すぎてなんでも発祥になるパターン)

日本は中国の文化から影響されたモノコトが多いので、当然といえば当然ですが、今の形は昭和以降のものだとか。
ぜんぜん関係ないですが、今ってそろばん塾ってあるんですかね、、、?

石盤と石筆 個人的に胸熱高ポイントアイテム

このタブレットのようなものは「石盤」といって、「石筆」で書くと、黒板のように消して何度も使えるものだそうです。
木というのが味わい深いです。


教科書の部屋

この展示室カッコ良すぎません?
当時の教科書。表紙がオシャレ。
かわいい

その名の通り、教科書が展示されている部屋です。
ほぼ実物で、一部は実際に手にとってみることができます。
小学校の時の教科書の記憶など時の彼方ですが、ここに展示されている教科書はとても丁寧に作られているように思いました。
ここは、のんびり見ていると時間が溶けるので要注意です(でも時間がなくてあまり見れず残念でした)。

たーふる〈tafel〉(複製)

今でこそ、机と椅子で学ぶことは普通ですが、当時は畳に正座です。
しかし、西洋化の影響で机と椅子に変わっていくのですが、これが評判が悪かったそうで、改良され現在に至るということです。
川村邦光 著『民俗文化論』「第三章”子どもの領分”の近代 3 訓練・規律科の学校」の中でも、「机や椅子と子どもの身体の関係に対して配慮しようとする考えはまったくなかった」とあるように、現在のように「子ども」は「子ども」と認識されるのは近代になってからだったことがリアルに感じられます。
大人になって、小学生の机や椅子を見ると「ちっさ!」と思うのは当然のことではなかったのですね。


数学と自然科学の時間が全体の40%(涙)

様々な実験機器 左:ワグネル 右:島津源蔵

明治5年の「学制」によると、数学と自然科学の時間数は40%だったとか。
非理系は逃げ場がなくて、もう泣きそうです。
しかし、それだけ理系の学問が重視されていたからこそ、今現在の技術の発展があるとも言えるのでしょう(多分)。

実験や観察が重視されたということは、そういった器具も必要となります。
教材用の理化学機器を製造するため、ドイツ人化学者であり、お雇い外国人のゴッドフリード=ワグネル(パネル左)の指導のもと、島津製作所の二代目・島津源蔵(パネル右:日本のエジソンと言われた)によって、多くの実験器具がつくられ、学校で使われるようになります。

島津製作所といえば「なんかわかんないけどすごい会社」というイメージでしたが、実際すごい会社でした。

蛇足ですが、ワグネルさんは日本での活動が色々おもしろいです。
例えば、有田焼に絵付けに使う青い色は、当時中国から輸入された“呉須”という鉱物から作られていましたが、このワグネルさんが「あれはコバルトと同じ組成。しかもコバルトの方が安い」みたいなことを教えてくれたので、有田焼を工業的な近代化に導いた人、ともいえます。

真空ポンプ


西洋から来た楽器

左:風琴(オルガン) 右:洋琴(ピアノ)
画像が見切れていますが、上に燭台が付いているのです。

今では普通に音楽室にあるピアノですが、当時は外国の高価な楽器でした。
この楽器は地域の人たちの寄付によるもの。


日本画は伝統産業の技能

上:第一学年 原在寛 十月五日「第一号 毛筆画 明治二十八年三月」より 下:『小学毛筆画帖』巨勢小石 著
簡単に見えるけど、絶対に難しい。

明治20年代になると、日本画の教育が重視されます。
というのも、京都の産業である、西陣織・友禅染・清水焼などの基本になるのが日本画だったからです。
そう言われれば、絵付けなどはすべて筆を使うので、毛筆ができることは必須なんですよね。
そういった事情もあり、京都の学校の卒業生には有名な芸術家が育ったようです。


戦時中の子どもたち

絵「オトウサンノニウヘイ」1942年(昭和17年)
作文「米英戦争」1941年(昭和16年)
対米英戦開戦の日の作文。

戦時中、子どもは親から離れ集団疎開をして、集団生活していました。金属類回収令が出ると、様々な金属類が回収対象となり、当時小学校にあった二宮金次郎像も回収されていきます。

作文を書いた生徒は、戦地にいる父親と手紙のやり取りをしていましたが、開戦後は途絶えたそうです。

戦後になると「学校指導要領」が作られるようになります。


学校給食

時代ごとの給食の変遷
戦後
現在

給食は世代によって特徴が出ていて興味深かったです。
デザートもこの辺から出されるようになったんだなーとか。
聞いた話によると、今の給食の中にはとてつもない高級食材が使われるところもあるとかないとか。あと、郷土食メニューとかはいいなと思います(裏を返すとそれが家庭で作られなくなっているってことだろうけど)


石盤の試し書きコーナー

展示室は周回するタイプの動線だったので、最終的には入り口に戻るのですが、最後にあの石盤のお試しコーナーがありました!
これはぜひ書きたい!
白い棒みたいなのが「石筆」です。
書いた感触としては黒板の硬い版、みたいな感じでしょうか。
消す時はタオルで拭くだけ。
たのしー!と思って、もっとグリグリ書いて撮りたかったのですが、あの「映像」を見ることを勧めてくれた方の視線の先にこの場所があるので、やめておきました。(こういう時、大人はつらい)

第2展示室

第1展示室をのんびりしていたら第2展示室のことをすっかり忘れていました。
(実は第3展示室にも展示されていたらしい。だが見る時間はない。)

ここでは西陣織・京友禅・京焼など、卒業生から各小学校に寄贈された作品が展示されていました。

《西陣織裂貼交屏風》昭和3年
色手描き本友禅 孔雀に百華 京友禅の制作手順を教える手本
《手描友禅 百花之図》藤工業所


まとめ

今回のはくれぽ!は、京都市学校歴史博物館でした。
正直、学生時代、学校とか教育とかまったく関心がない子どもでした。
今ある、学校や環境は普通にあるものだと思っていたし、特に恵まれているとも思ってはいませんでした。
それは、学校教育がすでに色々試された結果、均質にシステム化されたのちの世代だからだと思います。

なので、学校を作るのに市民がお金を出したとか、楽器を買うのに市民が購入して学校に寄付したといったようなことは、その地に住む人々が「まちを良くしたい」一心だったからであり、それには「教育」が必要だという考えに至ったことは、いつの時代でも同じことなのではないかと思います。

今はかなり社会情勢が違うとはいえ、子どもの教育、のみならず、教育の質は世代によって変化するものであるから、大人の教育(学習)も大事なのではないかと考えさせられます。
近年では、生涯学習やリカレント教育が公的にいわれるようにはなってきていますが、まだまだ世間の理解は得られていないような感覚があります。
子どもの時は勉強をしないと色々言われるのに、大人になって勉強をしていると「なんで?」と思う人も一定数いるように思います。
それは、その人個人がどうこうという話ではなくて、それこそ根本的な教育の問題なのではと、この博物館に訪れたことで感じました。

子ども用の解説文は小学3・4年生用と5・6年生用とで分けられている、親切仕様
山口華楊《凝視》のクリアファイルを買いました。
旧京都市立開智小学校の石塀
石塀は登録有形文化財指定 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/117677



おまけ(トイレ)

トイレがかわいい。


おまけ(食レポ)

博物館・美術館では、一切食には触れないはくれぽ!ですが、今回は珍しくお食事処情報をひとつ。
博物館から数歩で行ける、定食系のちょっとレトロ感あるお店Bianco。
本当に普通のお店で、どうやら近隣のお菓子屋さんがやっているとか。口コミも普通。

特筆すべき点はないですが、オシャレなカフェやレストランとかがある中、めちゃくちゃ気楽に入れてのんびり食事ができました。
しかし、今回食に関する発見がありました。それは
「クリームコロッケは白味噌汁で流すとうまい」
です。
や〜これ最高に美味しかったですね。ビックリしました。
あと、店内は分煙されていないらしいです。
今回はたまたま吸う人がいなかったので余計に良かったのかも。


【追記】

後日、再度訪れました。今回は校内も割とゆっくり見ることができました。

時代を感じる階段
案内版がかわいい
The小学校!

【参考文献】
川村邦光 著『民俗文化論』,京都造形芸術大学,2013年8月31日(電子書籍)

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