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牛の一突きの土地買収

コラム『あまのじゃく』1963/9/26 発行
文化新聞  No. 4577


坪一万円でも買収すべし‼

    主幹 吉 田 金 八 

尿処理場の現地ルポルタージュを取材したが、これでは市長の思惑に沿わなくなり、マズいのではないか」とM記者から相談を受けた。
 用地買収が難航している実情を知りたいというのは、おそらく飯能全市民の声であり、反対者という烙印を押されることを恐れて、地主たちも口を閉ざして正面切っては反対理由を掲げないが、市理事者のお百度参りにも良い返事をしないのはそれだけの理由があるのであろう。
 その理由、原因を突き止めて、話し合い出来るものなら歩み寄る、打開できる道を見出すためには、実情を把握しなければならない。
 戦争中の新聞のように大本営発表を丸呑みにして「勝った、勝った」で国民を喜ばせて、戦局の実相から総国民に真相を知らさなかったればこそ、あの惨めな敗戦である。現地の農民、地主の密かな願い、偽らざる声を忠実に伝えることこそ、新聞の使命であり、また建設への道でもある。
 それが大本営発表と食い違ったり、思惑に沿わなくなったって、「そんなことを顧慮することはない。良い狙いの記事だ」というのは、昨日のトップ『とてもダメの声も、うなぎ上りの地価が障害』というM記者の現地ルポルタージュであった。
 このところ、本社所在地の取材はH記者の入院でM記者の方の荷が多くなって容易でないことが察せられる。しかし、M記者はその分もと、気負って八面六臂の活躍をして紙面に穴を開けまいとして努力している。
 しかも現地農民地主の声なき声を忠実に伝えて、買収の停滞の原因が、終局は地主の採算であり、限りなく上がる地価に影響されていると結論付けたことは誠に明快であると思う。
 『あまのじゃく』子は、この処理場計画が具体化した当時に、時の岩沢議長に「思い切って坪1万円で買い上げて、地主の意表に出る」ことを勧告した。当時は千円か二千円で買える時であったから「そんなに出さないでも買収はできよう」というのが常識であった。
 しかし、市がほぼ目標を示すか示さないかの時に、その近くの山林が、さる土地会社の分譲住宅として売り出され、それは確かな記憶はないが、道路整地された高台が六千円内外だったように思う。
 その分譲宅地は土地会社が3、4千円で買った山林に手を加えて6千円で売るとか聞いたが、「あんな山の中の土地すら6千円になる」として、人の話は買値を言わず、売値を標準に伝えられるから、その山林よりも便のよい、しかも平らな土地を3、4千円で買おうとしても果たしてうまく行くかどうかと心配され、この用地買収の困難を思わせた。
 つい最近も別な用件で、この付近を通ってみたが、うっかりしている間に色々と建物も立ち、思いがけなかったのは、道端に土地建物の売買を専門とする店が2軒も出来たことである。
 なるほど、この分では「市に協力してくれ」と言った公益と社会奉仕の義理で押しても、地主は応と言わないかも知れぬ。土地の私有が憲法で認められ、売って儲けた代金には税金がかかり、これを免れようとすれば脱税として罰金が来るが、「まだ気に入った値段ではないから」と売り応じないことは何ら差し支えない。
 国は『ウンと高く売ってしこたま税金を払え』と奨励している。 都市近辺の銀行、農協の預金の増えるのは全て土地値上がりによる農民の不時収入であり、官公吏の月給、議員さんの歳費が半年ごとに上げられるのも不動産売買の差益による、 もしくはそれに関連する好況による税金が、うなぎのぼりに市町村、国家の財政を潤しているからとも言える。
 人がこたえられない程儲けているのを、屎尿処理場に指定された地域の住民地主にだけ指を加えて見ていろということが土台無理である。
 市街地をくさい黄金攻めから救うための施設とあれば、農民の満足する対価を与えて、その部分は受益の住民に負担させて然るべきである。
 仮に処理場の大きな周囲を1万坪、坪当たり1万円で買収すれば1億円、この節の金からすれば僅かである。
 1万坪あれば処理場はその一部分で済む。余の土地は市当局の説明通り、臭くない処理ができるとしたら、道路、公園等を作り、バスを通わせて坪一万五千円で売り出せば良い。
 市が金儲けの為に土地を取得してはいけない法律があっても、そうしなければウンコの始末が出来ないと説明すれば何とか上級官庁も通るであろう。
 それがいけないとあれば、自治体の能力以外のことだから、市はそこまで運んで投げ出す以外はない。
 人間は欲の動物であり、その欲が現行法律で認められているからには、欲には欲で対処する外ないであろう。こんなことを言ってる間にも地価はドンドン上がっていく。
 必要な地所なら5千円の時価の時6千円で、1万円の時なら1万5千円で手に入れる以外はない。
 土地はテレビや自動車のようにオートメーションでは生産できない。農民は一度手放せば買い返しは出来ないものである。馬鹿々々しい値で野菜や米麦を売っていた埋め合わせにタッタ一辺限りの売買なのだから、地主がニコニコする方法で買ってやるべきである。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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