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愛の鞭は容赦なく

コラム『あまのじゃく』1957/8/31 発行
文化新聞  No. 2651


愛犬の飼育から学ぶもの


    主幹 吉 田 金 八 

 子供が親戚からスピッツの生後半年位のを貰って来た。
 血統証明書のあるものだから、証明書だけでも三千円かかるとの話だから、只貰っては悪い訳だが、こちらから望んだ訳でなし、先方が飽きたから呉れたのだろうと、別にお礼もせずに飼っている。
 スピッツという種類の犬は見たところかわいいが、他所のは知らず、家で貰ったのは馬鹿らしく、お預け、お手貸せの芸当初歩すら出来ない能無しの様である。ただ小食なのが取り柄で、飯などをほんの茶呑み茶碗一杯も食わない事と、食物の選り好みが強いのか、食膳のものにほとんど興味を持たぬげで、鼻も近づけないのは綺麗である。
 その位だから糞便も少量で、大便などドロップ大のが二つ位コロリと出す程度で、近所にゴツい犬がいて、新聞社の庭がいつも砂利や木屑で乱雑なのを良き排泄場所と心得てか、朝起きると太いサツマイモ大のがニョキニョキしているのに降参しているのに比すれば大助かりである。
 初めは土間に寝かせて見たが、子ども達が座敷に上げ始めたのが習慣になって、いつの間にかお座敷飼いとなってしまった。
 母親が寝たきりで退屈しのぎに、子供たちと共に良いおもちゃにしているが、この間、座敷につないで置いた時、突然キャンキャンと悲痛な声を振り絞ったと思ったら、待ちきれぬように排泄の身構えとなった。
『フンだ。フンだ』とクサリを解く間にもあらばこそ、その時は生憎腹を壊していた時で、何時ものコロリ式のでない、ベロベロのやつで畳を汚してしまった。
 これが悪い癖の付き始めで、その後土間で用の足せる場合でも、廊下で小便をする様な事ともあり、『座敷では絶対に粗相をしない』との看板も返上するの不信用になった。前の時は鎖につながれたせいもあり、キャンキャンの悲鳴で心ならずもの所業とあって別に懲らしめもしなかったが、その後の失敗は、当然かの如く振る舞ったのが記者を腹立たせ、『鼻を擦り付けてどやしてやれ』と怒気満面の記者の命令も出し難く、平常犬や猫を馬鹿可愛がりにして、どれからも懐かれ、乱暴など出来ぬたちの次男が、それでも鼻ずらを畳にこすりつけて小言を言い、庭に叩きつけるお仕置きを敢行した。世間ではグレン隊、タイチンピラなどの青少年不良化が問題になり、現実に幾多の実例を見せつけられ、ちょうど20歳を前後する二人の青年の親として、青年の児童訓練については無関心でおられない。
 『どこの家の子はグレン隊だ。誰それはチンピラヤクザだ』と世間の噂を耳にするが、変な格好をして集団徒党して街角にたむろしていたり、町をのし歩いているのを見ると、全く情けなくなり、自分の子供は勿論だが、赤の他人の子供でさえ、あんなのにはさせたくなく思う。そうしたグレン隊を子にもつ親たちを見ると、決して親が悪いから子が悪いという訳でもなく、幾つかの例を見ても極道の子を持つ親御たちはまっとうな商売を持ち、健気に世を渡っている人達であるのを知る時、この親達がこの極道のために世間を肩身をすぼめて歩かねばならぬとあっては、全く気の毒で同情に耐えない。
 ただ記者の狭い経験からの見方だが、子供を不良化させるのは、父親のない場合など仕方がないが、あっても子供に対して甘すぎる、懲罰のけじめは厳然としていないような事はないか、平素は寛大でも越えべからざる一線を越えた場合には許さないという訓育の気迫がない様な父親だと、子供はズルズルと不規則な生活、不良の群れに入っていくのではないか。
 間違ったことは愛する子供なればこそ余計に許さない。鼻づらをこすりつけて、庭に放り出す位のムチに弱気を出してはいけない。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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