見出し画像

不人気の男女共学

コラム『あまのじゃく』1956/5/5 発行 
文化新聞  No. 2151


実証未だし、男女共学の功罪

    主幹 吉 田 金 八

 新憲法の教育の機会均等と男女同権が基幹をなしている現在の小学校から大学までの男女共学の制度は、理論の面では立派に意義付けられておりながら、現実には高校の線に置いて崩れかかって来たことは全国の実例が顕著に示している。
 最近の男女共学の高校における生徒の男女比率が、非常に偏向してきて、旧制の高等女学校から共学高校に移行したものには、女生徒が激増し、元男子中学校であったものには男子志願者が殺到し、甚だしい例としては県内久喜高校の如き本年の入学生が女315人に男9と言う様なものもあり、その他でも一割内外というのが普通で、理想通り男女半々等と言うのは全国にいくつもないと言うのが現状である。
 男女が対等な立場で、自由に朗らかに交りながら、勉学に勤しむという図は、想像しただけでも愉快であり、社会の理想でもある。
 アメリカではこうした理想通りの教育が行われていると宣伝されていたが、映画「暴力教室」に現れる米国都会の下町高校における生徒の生態、あれが必ずしもアメリカのハイスクールの水準ではなく、映画が誇張する極端な例かもしれない。
 女教師に挑みかかる場面、かっぱらいを常習して恥じない態度、凶器を振って教師や学生を脅かすなど、題名が示す如き暴力無頼が、そのまま米国の高校だとは思わないが、どこの国の映画でも同様、相当誇張することはあっても、全然現状から隔たっている訳ではなく、ある程度の現実を伝えておらぬ限り観衆が取り合わず、企業商品として成り立たないことなどから割り出しても、米国の男女共学の実態もほぼ想像出来ると言うものである。
 人間に恋愛や性欲がつきまとっている事は、そのために人生が天国であったり地獄であったり、誠に変化があって面白い。しかもこれは別に人間の意思によって望んだものではなし、あらゆる動植物が自然に備わった仕組みであり、特権である。
 生きとし生けるものが墓穴に埋められるまで、このことで苦労するのだが、この性の芽生えがちょうど高校時代に本物となるだけに高校の男女共学ということに問題があるわけである。
 記者が短い半生を振り返ってみても、人間が本当に勉強に身を打ち込める年代は20代前である。この時代は学問に対する情熱も好奇心も野心も一番旺盛な時であるし、彼も体力も頭脳も相当の酷使にも耐えられ、錬磨すればするほど立派なものになる大切な時である。
 この重大な時期を同じ教室に異性が机を並べて一挙一動が意識、無意識的に反応し会うことは、勉強に相当な邪魔となる事間違いない。恋愛は人間に勇気と 奮発心を与え、青年時代の得恋も失恋も、これを動機に偉大なる芸術や学問事業を完成し、後代に名をなした人の事も歴史に伝えられているが、これは選ばれた何万人に一人という天才、英傑の特異な事例で、以下右にならえの凡人にとっては、これに耽溺して志を失い、学問を放擲して小市民的一生を終わってしまうのが通例である。
 だからといって、記者は恋愛を否定し、これを軽蔑するものではない。大いにこれを堪能して人生にハリを保つことは結構であると思う。しかし高校生年代の男女がそんなことを意識し、かかわりあっていたのでは、折角の勉強は絶対に手につかぬこと請け合いである。
 最近は学生結婚などという言葉を耳にするが、女房に送られて学校に行くなんていうのは、おそらく新聞雑誌の話題に囃されても、果たして上手くいくかどうか。恋愛とか男女の交渉は機会によって生まれ、成長するものだから、やはり高校生位のうちはニキビを潰しながら密かな思慕を通学の往復に、他校の生徒に通わせる位が良いと思う。特に、旧高女の高校に大多数の女生徒の間に少数の男学生が居候みたいに縮こまっている図は、去勢されたヘナヘナ男か反射現象で独善の乱暴者が生まれるのではないかと思われる。男女の能力の差異、共学の及ぼす学力低下等論ずべき問題は多々あることも、進学重点の有名校が共学の制度が現実に崩れていることによって示されている。筆者はこのことあるを数年前から持論としており、自分の子供は男だけの高校学校に行かせる様にしている。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?