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使用価値の価値観〈4.使用価値と経済〉

〈1.はじめに〉はこちら
〈2.幸せと使用価値〉はこちら
〈3.使用価値とは何か〉はこちら

社会が目指すべき「豊かさ」とはなんでしょうか。
現在、政治の領域においても、企業経営の領域においても、家計の領域においても、経済的な豊かさが支配的です。しかし、豊かさとは人々が内在的に経験しうるものであり、外在するものを経済的に測定するだけでは人々の豊かさに迫ることができません。多くのお金やモノに囲まれていても、人自身が豊かさを実感していなければ本末転倒です。
そして、「物資的な財をいかに使用するか」「物資的な財を使用することによって人々がどのような豊かさを享受しているのか」を観ていくのが使用価値であり、人自身の実感としての豊かさ(使用価値)を伸ばしていこうとするのが使用価値の経済です。
ここでは、まずは現在の経済を交換価値-使用価値の観点から批判的に分析します。そして、使用価値の経済を考えるにあたって、モノの使用価値について考察したのち、経済を構成する生産と使用のあり方、さらに市場の仕組みについてそれぞれ捉え直していきたいと思います。

【4-1.経済成長にその価値を問う】

・幸福のパラドックス
幸福度の向上には経済成長が決定的な要因であると考えられていましたが、経済が成長しても人々の幸福度は向上しないという幸福のパラドックスが報告されています。(参考:「幸せのメカニズム」)GDPや年収などの物的豊かさの上昇が、必ずしも幸福度に寄与していないということです。この原因について、豊かになってもすぐに慣れてしまうとする順応仮説や、周りとの差が幸福につながるため全体的な収入の上昇は個人の幸福度に寄与しないとする相対所得仮説などが挙げられていますが、私は交換価値と使用価値の違いにあるのではないかと考えています。

・交換価値を指標とする経済成長
GDPや平均年収などの経済成長を測る指標というのは、交換価値の指標です。例えば、GDPは国内でどのくらいのモノ(付加価値)が取引/交換のために生産されたかを合計して算出され、年収というのは自らの労働力/労働時間に対する1年分の交換価値のことであり、モノを交換するための貨幣の追加を意味します。
そして、モノや労働力などがいくら交換されようと、そのモノや収入の使用価値が向上していなければ豊かさや幸福には繋がらない、ということではないかと思います。人々の豊かさを測るためには、モノがどれくらい交換/生産されたかではなく、そのモノたちによってどのような/どの程度の豊かさが実感されたかという使用価値を見なければなりません。

・経済成長は本当に必要?
モノが十分に行き渡っていない時代には、交換価値の指標によって多くのモノの交換/生産を促すことが発展の原動力になっていました。その結果、モノがたくさん生産され、交換されることにより、経済は成長して物的な豊かさを実現することができました。
しかし、モノが過剰に生産されるようになった多くの先進国においては、交換を重視するあまり消費社会が展開され、使用価値がないがしろにされてしまっています。例えば、計画的陳腐化によってモノの寿命が短縮されていたり、めまぐるしいトレンドのサイクルが必要以上の交換を煽ったりするようになっています。モノは次から次へと交換され、使用ではなく消費されています。

・山積する課題
さらに、経済成長(交換価値)を最優先にしてきた結果、多くの課題を引き起こしてしまいました。特に顕著なのは、自然環境の破壊、資源の枯渇、温暖化、生態系の崩壊などの地球の課題です。産業革命以後の過度な資源消費や環境汚染によって、持続的でない経済が展開されてきました。さらに、過剰な市場競争の結果、人々の心理的ストレスを高め、精神疾患や自殺者の増加などのメンタルヘルスの課題も生じています。また、資本主義や新自由主義によって、経済/教育/医療などの様々な格差も拡大しています。

・経済成長よりも使用価値を目指したい
以上のように、交換価値の拡大を目指す経済成長主義によって、物的な豊かさを実現することはできましたが、現在では過剰な生産/消費によって、モノや地球や社会の使用価値が犠牲になっています。これ以上いくら市場の規模が大きくなろうと、科学技術が発展しようと、それは本当に私たちの豊かさのためになるのでしょうか。ただ地球を搾取し、社会や人々を疲弊させてしまってはいないでしょうか。
そこで、いかに経済活動を進めるかというHowを考える前に、そもそも豊かさとは何かといったWhatを問う姿勢が、経済の領域において必要ではないかと思います。
そして、私は使用価値によって豊かさの内在的な側面を明らかにすることで、よりよい社会に向けた一つの方向性を提案することができると考えています。経済のための人/社会/地球ではなく、人/社会/地球のための経済であるべきです。さらに、人自身が内在的な豊かさを構成し、実感できるということは、人自身が内在的な幸福を構成し、実感できるということです。「使用価値」という価値観の上に成り立つ経済や仕事(生産)、生活(使用/消費)のあり方を構想することで、より持続的かつ人自身のためになる社会の実現を目指したいと思っています。

【4-2.使用価値の経済における生産のあり方】

・耐久性を持ち、“世界”にふさわしいモノを生産する
使用価値の経済で生産されるモノは、耐久性を持ち“世界”にふさわしいモノでなければなりません。耐久性こそが長期に渡る使用を可能とし、モノは消費されない恒久的な価値(使用価値)を持つことができます。
また、耐久性を持って“世界”に属して長期間使用され、さらには後世にまで受け継がれていくため、こうした“世界”にふさわしいモノであるべきです。非常に高い耐久性を持っていたとしても、“世界”にふさわしくないモノもあります。例えば、原子力発電による放射性廃棄物を処理するためには10万年間の安全に保管することが必要です。そのため、原子力発電によってエネルギーを生産した人やそれを消費した人は、放射性廃棄物を生み出した責任を負って放射性廃棄物の処理までを全うするべきですが、そうすることはできません。“世界”にモノを生み出すということは、こうした生産の責任が発生しますし、よりよき“世界”にふさわしいモノでなければなりません。

なお、農作物等の人間にとって消費せざるを得ないモノについては、耐久性は無くとも「使用価値の高い消費」が目指されるべきです。使用価値は、耐久性の無い消費の領域に対しても適用しうる価値観であると考えています。
例えば、1つのトマトという消費財は1回しか使用することができませんが、使用や有意味性による使用価値は発生します。また、そのトマトは1度限りの消費ですが、「トマト」という食材は何度も消費され、使用価値の構成のループは断続的に続いていきます。さらに、モノではありませんが、「食事」や「調理」などの消費財にまつわる行為/時間の価値を考える際にも、使用価値の価値観は有効です。

・社会に付与され、社会に実感される価値
現在の消費社会では、モノから耐久性をそぎ落とし、どんなモノでも使い捨ての消費財のように扱います。交換価値の経済では基本的にモノを商品とし、それを購入してもらうことによって利益が発生するため、既存のモノと新規のモノの交換を目指しています。そして、昨今の消費社会では、より早く交換のサイクルを回すために、モノをモノとしてではなく、モノに付与されたシンボル的な意味を交換させるようになっています。例えば、洋服の領域では、めまぐるしいファッショントレンドによって人々はまだ着れる服であっても「去年のトレンドはもう古い」「流行りに乗って買ったけどあまり気に入らなかった」という理由で捨ててしまいます。そして、服を生産する側もこのような交換を促すことを目的に、洋服をデザインし、宣伝し、販売しています。
実は、消費社会もモノに対する有意味性を実践しているのですが、使用価値における有意味性とは異なります。それは、社会に付与され社会に実感される価値と、私自身で付与し私自身が実感する価値という違いです。使用価値とは、使用者それぞれに固有の価値であり、その人が内在的に経験される価値です。モノに対して有意味性を付与し、実感するのは使用者本人である必要があります。
対して、付与されたシンボル的な意味というのは、モノをより魅力的に見せたり、他のモノと差別化したりするために、生産側が作り出して広告等によって社会に植えつけた意味です。さらに、社会におけるシンボル的な意味が成立し、その価値が実感されるためには、社会のヒエラルキーが不可欠です。例えば、フェラーリは高級スポーツカーという社会的ステータスとしての意味を持っていますが、この意味(価値)を実感するためには実際の街中でフェラーリが珍しいことや他者にすごいと思われることが必要です。
このような社会におけるシンボル的な意味は、社会の内部で格差や階級を分け、人々に嫉妬/羨望/劣情を生み出します。これが消費社会の原動力になっています。よりステータスの高いものや、個性化された他とは違うモノを渇望させることによって、さらなる交換を促そうとするのです。
しかし、付与されたシンボル的な意味というのは使用価値に関わりません。フェラーリだろうが軽トラックであろうが、いかに使用するか、どんな思い入れが詰まっているかということが重要です。また、社会的ステータスやシンボル的意味を持ったモノを生産し、消費させたところで、人々は豊かさを実感することはできませんし、“世界”の豊かさにも関わりません。そのため、消費社会のような交換を目的とする生産ではなく、使用者自身が付与し実感する意味や、使用価値に対して価値を持つような生産へと移行しなければなりません。(参考:「消費社会の神話と構造」)

・モノではなく使用価値が商品となる
経済の構成要素である商品という視点で考えると、モノではなく使用価値(または使用価値への支援)が商品となります。交換価値を中心にした場合には、生産者と使用者間でモノと貨幣(その他、等価にあたるもの)を交換した時点で、価値の交換(取引)は完了します。しかし、使用価値を中心にした場合には、モノをよく使用してもらって初めてその価値が認められるため、モノを交換した時点では取引が完了していません。ただモノの引き渡しを行なっただけでは十分ではなく、モノが潜在的に持っている使用価値を活かしたり、使用者の創造性により使用価値が増幅したりできるよう、支援しなければなりません。
なぜならば、生産者はそのモノの使い方や手入れ、修理の方法等、そのモノに関する知識が最も豊富な人であるからです。そのため、生産者は耐久性のあるモノを作るだけでなく、使用価値への支援までを含めた中長期的なパッケージを商品としなければなりません。これは、“世界”の視座から見ても、モノを“世界”に生み出した生産の責任であると捉えることができます。
そして、使用価値の経済ではモノを商品としないため、過度な消費は起こらず、資源消費を抑えることが可能です。モノを生産するためには物理的な自然資源および加工のためのエネルギーが必要とされますが、商品の交換を抑えることができれば、これらの自然資源の消費も同時に抑えることができるのです。

また、モノを生産するとしても、そのモノは使用者それぞれに合わせて生産することで、個別固有な使用価値の向上を目指します。画一化された規格によって大量生産されたモノではなく、その使用者の生活環境、身体、好みなどに合わせて、使用者に最もフィットするようなモノが生産されるのです。例えば、使用価値の高い靴というのは、その使用者の足のサイズ、形、動かし方、筋肉の柔らかさ、着用する服との相性、どのような道を歩くのか、乾燥した地域か雨の多い地域か等といった、その使用者の生活環境や身体などに合わせて作られます。使用価値の経済では、人間の身体や環境に対する知識を持っていることが優れた生産の条件になります。(参考:「経済成長主義への訣別」P317,318)

・使用との接続
以上のような商品に対する考え方により、生産者と使用者の取引はモノの交換の場面だけではなく使用の場面にもおよぶため、生産者は使用の場面に積極的に介入します。例えば、洋服であれば、各購入者がよりよく着ることができるように持っている服との相性を一緒に考えたり、洗剤や干し方、保管方法を指南したり、さらには定期的に洋服のケアを施したりします。現実的に考えて、洋服を購入するたびに初対面の店員さんとこのようなやり取りを行なうのは難しいので、私は“いきつけ”の制度が発達すべきであると考えています。自分のスタイルや好みに合ったお店を“いきつけ”とし、生産者が使用の場面にまで積極的に介入できるようになることで、より使用価値に対するサービスが展開されていきます。
また、副次的な効果として、生産者が使用の場面に携わり、使用者の目線を持つことができれば、さらに使用価値の高いモノを生産できるようになっていきます。

【4-3.使用価値の経済における使用のあり方】

・モノの寿命を絶えさせない
使用価値の経済における生産のあり方として耐久性が重要なように、使用のあり方としても耐久性を保持しようとするあり方が重要です。いくら耐久性のある使用財が生産されても、使用者によって処分されたり、ぞんざいに扱われたり、消費財のように扱われてしまえば、長期的または恒久的な使用価値をもたらすことが叶わなくなってしまいます。例えば、上質な綿を用いてその人の身体にぴったりなシャツを作り、洗濯や保管の方法、修理や染め直しの体制を生産側が整えていたとしても、少し醤油をハネさせてしまったからといって数回着用しただけで捨ててしまえば、そのシャツの使用価値は十分に発揮されていません。
私は、使用者には一定の使用の責任があると考えています。まず一つは、使用財とは使用者の私有のものであると同時に、“世界”に属する共有的な財産でもあると考えるためです。例えば、長次郎による楽茶碗(千利休の創意を受けて作られたお茶碗。値段は3億円とも)を購入したからといって、不適切な使い方で歴史的/文化的価値のあるものを消耗させてしまってはいけません。二つ目に、使用価値が生産者への対価にも換算されるべきであると考えているためです。生産者は使用者の使用価値のために生産しているので、使用者もよりよく使うことを使用の責任として負わなければなりません。例えば、「せっかくジャガイモを作ってもらったのに、腐らせてしまいました」というのは、使用の責任を果たせていないことになります。そして、使用価値の経済において、使用価値に対するお礼が生産者への対価として送られ、生産者の報酬となります。そのため、使用の責任を果たすことは、生産者と使用者間の取引/契約の一つです。(取引のあり方は【4-4.使用価値の経済における取引のあり方】で後述)

・欲求は使用価値へ
使用価値の経済における商品とはモノではなく使用価値であると述べましたが、その前提として、人々の欲求が使用価値に向かっているということが必要です。人々は、社会的な消費競争や、社会/生産側が付与する価値ではなく、自らの暮らしにおける使用価値や、自らが付与する意味によって、自らの欲求を支配しなければなりません。例えば、かっこいいモデルが着ている広告にそそのかされて洋服を買うのではなく、自分の身体にきちんとフィットするか、自分のワードローブに馴染んでコーディネートとしても格好よく着ることができるか、洗濯やクリーニングなど継続的にケアすることができるか、という使用者本人にとっての使用価値が先立って購入を検討しなければなりません。
さらに、使用価値へ向かう欲求の範囲は、新たなモノを購入するということに限らず、既に持っているモノをさらによりよく使用することに対しても働きます。例えば、革製の靴や鞄などのための靴磨きを始めたり、自分の部屋をより気持ちよく使用できるように掃除をしたり、インテリアや模様替えを考えたり、また、食事という時間の使用価値を高めるために料理の練習をしたり、気に入った食器を選んだりすることもできます。
以上のように、個々の身体や暮らしの文脈で実感される使用価値を基準にするようになると、人々の欲求はより自らの身体や感覚に根ざしたものへと変化していきます。そもそも、使用というのは個々の身体で行なう行為です。日頃の生活の中で、いかにしてよりよく使用することができるかと考えることは、自らの身体や感覚に根ざした知性であると考えています。

・生産との接続
使用者が生産に携わり、生産背景を知ることは、使用価値を高めることにつながります。使用の事後的な使用やケア等によって愛着が育まれるのと同じように(1章の家の例)、事前的な生産への関わりによっても愛着が育まれます。例えば、誰が作ったのかわからないジャガイモよりも、知り合いの佐藤さんが作ったジャガイモの方が丁寧に調理しようと思えます。また、農家の鈴木さんの生産する野菜たちがすくすくと育っている様子をSNSで見守ったり、どんな思いで日々生産しているのかを知ったりすることで、その一つの野菜に対して意味が加わります。さらには、実際に自らが生産に携わり、自分たちで育てた野菜の方が食べた時の喜びはひとしおでしょう。

【4-4.使用価値の経済における取引のあり方】

交換価値の経済では、モノが主な商品であり、モノと貨幣を交換する形で取引が行なわれます。しかし、使用価値の経済では、使用価値が商品となるため、モノと貨幣を交換するといった旧来の取引の形態では対応することができません。(4-3に前述)
使用価値の経済における取引の形態として、事前の対価と事後の対価があると考えています。

・事前の対価(生産への共同出資)
まず、生産を行なうためには資金が必要です。どんなモノであっても生産にはコストがかかっており、商品となって消費者の手元に届く以前から資金が必要になります。しかし、交換価値の経済では、商品が生産された後に、貨幣(生産資金となるもの)と交換するために、使用者から事前に生産のための資金を集めることはできません。交換による利潤から間接的に徴収されてはいるものの、実際にその商品の生産のためにどの程度の金銭的コストがかかっているのか、どんな人や資源などによって生産されているのかといった生産背景を知ることはできません。私はここに、生産と消費の分断が生じていると考えます。生産側は勝手に生産して販売し、消費側は購入して勝手に消費するといった、“生産の責任”や“消費の責任”の放棄が発生します。
生産と消費が分断されることによって起きているのが、グローバル・サウスの問題です。グローバル・サウスというのは、グローバル化によって被害を受ける領域や住民のことです。グローバル化によって、先進国が消費するモノは、途上国という異国の見ず知らずの人によって生産されるという構図が生まれました。途上国に生産を押し付けて外部化するなかで、先進国の消費者は生産背景を知ったり想像したりすることなく、過度な消費を行なうようになってしまっています。例えば、チリでは欧米人の“ヘルシーな食生活”のためにアボカドを大量に生産し輸出しています。そのアボカドは、森のバターとも呼ばれるように、1度栽培すると他の野菜を生産することができなくなるほどの大量の水と養分を必要とするそうです。そして、そのチリを昨年大干ばつが襲い、深刻な水不足を招きました。コロナ禍での水不足のなかで、その水は手洗い等のコロナ対策ではなく、アボカドを生産するために使われているのです。(水道が民営化されており、利益を優先したため)こうした事態にも関わらず、私たちはチリの水不足などお構いなしにアボカドを食べます。
消費をするのであれば、その“生産の責任”を負わねばなりません。しかし、分断が起こっている現状では、一方的な搾取が起こっているのです。(参考:「人新世の『資本論』」)
そこで私は、生産に必要な資源、人、金銭的コスト等の生産背景を開示し、それに納得・共感した使用者を募り、生産のための共同出資という形で生産を開始するべきであると考えています。
生産と使用が接続していれば、フェアトレードや環境に対しても責任を負うことができます。さらに、使用者が生産に携わることによって有意味性を高めることにもつながります。(「・生産との接続」で前述)
私は、知らん顔でアボカドを食べる先進国の“人”や、コロナ禍かつ水不足なのにアボカドを生産するチリの“人”が悪いのではなく、このような生産と消費の分断を引き起こす経済の構造が悪いと考えます。
交換価値の経済では、生産側と消費側が分かれており、この二者がモノと貨幣を交換することで経済が動きます。生産側は、交換価値(利潤)を求めるために、より安くて効率的な生産背景を選択してします。また消費者も、その生産背景を知らずに、または見て見ぬ振りをして、安いものを買おうとするのです。
だからこそ、私は経済の構造に着目して、こうした無責任が生じる交換価値の経済ではなく、生産と使用が接続した使用価値の経済を目指したいと思っています。

・事後の対価(使用価値に対するお礼)
使用価値の経済にとって肝心なのが、事後の対価です。前述した事前の対価というのはモノの生産に対する徴収ですが、こちらは使用価値に対するお礼に当たります。使用価値の経済における商品はあくまでも使用価値であるため、事後の対価こそ使用価値に対する対価になります。
交換価値の経済では交換した時点で取引が終了するのに対し、使用価値の経済では使用の場面にまで介入して使用価値を最大限享受できるようにサービスを提供するということを述べました。(「・使用との接続」より)このようなサービスのあり方により、モノと貨幣を交換した以後も、生産側のサービスは続きます。こうした使用価値に対するサービスの対価として、事後の対価が必要なのです。
しかし、実際に使用価値に対するサービスを受けていなくても、使用価値のお礼としての事後の対価は重要です。生産者は使用価値のために生産を行なっています。交換の対価としてのお金を受け取るためではありません。そのため、使用者は、モノの対価だけでなく、使用価値の対価を生産者に贈る必要があります。例えば「こんな風にアボカドを食べました!」という使用価値を生産者にお礼として伝えるだけでも十分です。使用価値の経済では、こうした使用価値こそが生産者の目標であり、働きがいになります。生産のコストや人件費としては、事前の対価ですでに徴収しているために、この事後の対価は「お礼」の側面が強く表れます。
使用価値の経済とは、ただモノやお金という外在的な価値が交換される社会ではなく、生産の物語が育まれ、使用による満足感やそのお礼というそれぞれの内在的な価値がめぐる社会であると考えています。

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『第2部:自分ごとの価値に根ざす地域資本主義』へ続く
第2部〈5.はじめに〉はこちら

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