僕の50日戦争

6、7月と自分や周りと戦っていました。

と書くと痛々しいというか…それこそBase Ball BearのFlameで歌われる、通過儀礼のような孤独感と向き合ったのかな…と思います。

かの先輩に対して、一旦好きな人ってフィルターが外れるとその人のすべてが苦手で、気持ち悪くなりました。片思いでなくなったなら、と勢いで細かく聞いてみると、そも、ひととの関わり方が自分と大きく違っていたようでした。それに気づいていたら、きっと好きにはならなかっただろうけど、好きだったゆえに見ないようにしてたかも…と思います。

さらにその時期、なんとなく仲間ハズレな感じを同級生から受けていたと知り、さらに新任の先生に自分の調べた資料をまるっと台無しにされてしまい…スクランブルを極めてしまいました。

この二年強で作られた、社会的な自分が全て抹殺されたというか。6月終盤から7月頭は、仕事以外で引きこもるほど悲しくなってました。全体的にネガティブな気分ではあったと思うのですが、ここまで続くかあ…と。

そんな日々も今では、仮初めの恋愛と、友情と、達成感に酔っ払っていたのだなと、激しい二日酔いだったような感覚です。激しい二日酔い状態に少しずつ効いたのは、ツイッターのフォロワーさんや大学時代からの友達、自分の師匠にあたる先生方、そして家族でした。まさか、こんなに助けられるとは…。ただ声をかけられることに、とても救われました。その、自分の在り方さえ疑うレベルに落ち込んだので…。本当に皆さま、ありがとうございました。いつか、皆様に何かで返せたらと思います。

なんというか、やることなすこと何事にも独りよがりな気がしたり、まだときに苛まれている瞬間はあって、そのショックは離脱症状のように残ってますが、これは僕の人生の課題なのかなとも思います。隙あれば単独行動したがるのに、とても寂しがり。一人がいいのに独りは嫌い。見てられると動かなくなるのに、誰にも見られないと動けなくなる。勝手に悲劇のヒロイン気取りなことにも気持ち悪さは感じますが、そんな部分もある自分と、改めて生きていこうと思います。

しばらく何も書けなかったですが、また音楽とか考えたことを書いていこうと思います。特にねごと、Nothing's Carved In Stoneのライブには救われました。ライブ会場にいる事は、いまだに非日常。見ている間に何度思考をそんな孤独感に持っていかれても、終演時には生きている気がします。
それでは!

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