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「嘉手苅林昌と「世替わり」に対する感性」(二年前期:琉球芸能論A)

 琉球及び沖縄の社会は、唐の世から大和の世、アメリカ世へと、支配者層が激しく移り変わってきた。沖縄では、時代ごとの世相の変化を「世替わり」と呼ぶ。そして、戦後の沖縄民謡界を牽引し、世替わりする沖縄とともに生きた歌手のひとりに、嘉手苅林昌がいる。
 本レポートでは、嘉手苅林昌の生き様と楽曲を通して、沖縄の歴史におけるキーワードとして広く受容されている「世替わり」の様相について考えたい。
 嘉手苅林昌は、1920年生まれ、沖縄本島の旧越来村仲原出身の民謡歌手である。
 この地域は、戦後の米軍による土地接収により、嘉手納基地の土地として取り込まれた。戦後直後の沖縄では、米国民政府の土地接収により、「土地闘争」や「島ぐるみ闘争」が起こった。このことから、嘉手苅が、米国支配下の複雑な社会情勢を生きた当事者の一人だったことがわかる。
 嘉手苅は、歌人の母が歌う民謡を聞いて育った。10代後半に大阪の製材所で勤務し、20歳頃南洋へ移民する。しかし太平洋戦争に伴い、日本軍に招集される。その後、1949年に沖縄へ帰郷、劇団の地謡として興行巡りをし、唄三線に磨きをかけた。以後、戦後の沖縄民謡界を牽引する一人となる。主な嘉手苅の代表曲は、『ナークニー』と『下浜鳥』が挙げられる。『ナークニー』は、即興で歌詞を歌い上げる点が特徴である。一方、『下浜鳥』は、島うたの中で最も難しい曲の一つで、離別をテーマとした叙情歌である。
 嘉手苅は、「風狂歌人」と呼ばれるほど、放浪と奇行が有名である。ライターの小浜司によると、嘉手苅は「ちょっとアルゼンチンまで」と言い残し半年後にブラジルから帰ってきたこともあったという(小浜 2009:132-133)。
 嘉手苅は戦後の世の中で、たくましく柔軟に生きてきた。復員後の大阪、そして帰郷後の沖縄で、劇団に加わり地謡として巡業もした。加えて、嘉手苅は、戦後に地謡として活動しながら副業もしていたという。
そこで、私は、特に嘉手苅が携わった「副業」に注目して、その柔軟性を考えてみようと思う。
 まず、嘉手苅が選んだのは「馬車曳(運送屋)」であった。理由は、この職が「歌える仕事」であったからという。嘉手苅の馬車曳は、沖縄市の市場で大人気であった。それというのも、嘉手苅が三線を弾けば、目の前の店が大繁盛するからである。
 次に興味深いのが、嘉手苅が「つつもたせ」をやっていた伝説である。嘉手苅がポン引き(土地に不慣れな人を騙す)役になって米兵に女の子を斡旋し、そこへ警察官に偽装した前・琉球民謡協会会長の前川朝昭が乗りだし米兵を追払い、金銭を巻き上げていたという(小高 1992:32)。
 そして、『島唄を歩く 1』では、特に興味深いエピソードが紹介されている。一時期、嘉手苅は、兄の林康に代わって米軍の炊事班として働いたという。職場には気難しい外国人の上司がいて、休憩時間にお茶一杯も飲めない環境であった。しかし、嘉手苅は融通を利かせ、上司をおだてていい気持ちにさせ、「休憩時間には従業員全員がコーヒーを飲める雰囲気の職場にした」(小浜 2014:22-23)。
 このように、嘉手苅は、当時の沖縄社会において抑圧者であった米兵を、うまく利用し、時に騙しながらも食いつないできた。当時、嘉手苅がアメリカ世のなかで柔軟に生きる様が、武勇伝や逸話という形であれ、人々を活気づかせていたのだろう。そして、当時の人々は、そのような物語を楽しむことで、自己や沖縄を、世替わりの歴史を生きる逞しい主体として立ち上げようとしたのではないか。
 その後、嘉手苅は、馬車曳として2年ほど働いた後、民謡ブームに乗じて歌手として人気を得て、沖縄民謡界を牽引することになる。そして、その頃の代表曲のひとつとして挙げられるのが、『時代の流れ』である。
 この歌は、嘉手苅が、首里のバス停で女性たちの面白い会話を元に作詞した歌であるという。なお、旋律は民謡『花口説』が元にある。歌詞は「唐の世から 大和の世/大和の世から アメリカ世/ひるまさ変わたる 此ぬ沖縄」とあるように、時々の支配関係に振り回される、沖縄の姿や生活風俗を描いている。
 松村洋は、沖縄の人びとが、『時代の流れ』を通して、新しい権力者の下で甘えて生きる者の姿を見たに違いないと解説する。さらに、その者とは、神州不滅・鬼畜米英から、アメリカ製「民主主義」へと向かい始めた、大和の姿に繋がるとも述べている。
 そして、松村は、「〇〇世」と言う言葉に、沖縄の世替わりがいつも外部の侵入者によって強いられてきたことに対する皮肉が込められ、常に新しい時代と対置されて表現されると指摘している。その上で、「沖縄音楽」自体が批評性を帯びているとも述べる(松村 2002:51-61)。
 一方、ライターの竹中労は、嘉手苅の歌を筆頭に、沖縄の人にはある「やさしさ」が底通していると語る。それは、「圧政、差別のなかで、いいたいことも言わず、つのる思いをうた(芸能)に発散させてしまう」やさしさだと述べる。そして竹中は、沖縄の人間は前述した点において優しすぎるのではと問いかける(上原 1973:64-70)。
 つまり、『時代の流れ』は、戦後まもない当時において、沖縄の歴史の実状を批評した意義のある歌であった。しかし一方で、この歌には、日本復帰後の今もなお沖縄の世を嘆く歌や芸能止まりで、戦後の沖縄が主体性を獲得する上では、その意義が問われる問題点もあるようだ。
 嘉手苅林昌の表現者としての歴史性は、世替わりする沖縄を歌うことで、そのイメージを構築した点にあるだろう。しかし一方で、現代を生きる私たちには、現代においても「時代の流れ」が「世替わり」を歌う意義について考える必要があるのではないか。嘉手苅は、圧政下の沖縄でしなやかに生きながら、時代に対する批評を伴った歌を紡いだ。だからこそ私もまた、先人たちの築いてきた歴史に対する自覚の下、現代に対する批評精神を織り込みながら、音楽作品を作りまたは受容する姿勢が必要だと考える。

参考文献
書籍
新城俊昭, 2008, 『ジュニア版 琉球・沖縄史』, 沖縄:編集工房 沖縄企画
上原直彦, 1973, 「嘉手苅林昌 おきなわ怨み節」, 『青い海』, 3巻7号:64-70
大城學, 2004, 『唄遊び 嘉手苅林昌の世界』,コロムビアミュージックエンターテイメント
国場幸太郎, 2019, 『沖縄の歩み』, 東京:岩波書店
喜納昌永・滝原康盛, 1992, 『正調琉球民謡工工四 第4巻』, 沖縄:琉球音楽楽譜研究所
小高民雄, 1992, 『沖縄カルチャーブック ウチナー・ポップ』, 東京:東京書籍株式会社
小浜司, 2009, 『島唄レコード百花繚乱−嘉手苅林昌とその時代』, 沖縄:ボーダーインク
小浜司, 2014, 『島唄を歩く 1』, 沖縄:琉球新報社
藤田正, 2001, 『沖縄島唄紀行』, 東京:小学館
松村洋, 2002, 『唄に聴く沖縄』, 東京:白水社

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