左ページに朝、右ページに夜

2021.4.5

・今朝の京都は少し肌寒い、春とはいえ、まだ風は冷たい、けど暑いよりずっとましに思う、けどコーヒーが冷めるのが早いとちょっと切ない。

・先日、新しい社員証が交付された、顔写真付きの我が社の社員証は6年を境に更新される、最初の写真を撮った(撮られた)のは、忘れもしない10月の内定式のこと、ちょっと、と呼び出されたおじさまに撮った(撮られた)写真が社員証に印刷された、わたしは東京で内定式を迎えた同期たちと違って大阪での内定式だったため、彼らの写真に多少のプロ感(ちょっと肌が綺麗とか、ちょっと距離を取って小顔目とか)が見受けられたけれど、わたしのは誰が見ても修正なしの素人写真で、特に緊張で汗ばんだところまできっちり写っているのが悲しかった、はやく新しいの貰えないかなと思っていたら、あっという間にその機会を迎えた、ちなみに新しい写真を撮ったのもやはり秋頃で、その時は総務部が用意した写真館で撮っていただいた、髪もセミロングでお姉さん雰囲気を纏っていたにもかかわらず、年明けにボブに、そして先週さらに短く髪を切ってしまって、もはや現実は少年、写真のなかのわたしがいまと延長線上で繋がっているとは想像しがたし、社会人になって7年目の春である。

・4月を迎えてから、ひそかに10年日記をつけ始めている、どうせ飽きるだろうと続けることを期待していないが、それでも初めて5日目、一応続いている、ページを開けると左上に日付があって、そのすぐ下に同じ間隔で10行分の罫線が左右両方のページに引かれている、説明書によると、各行に年数と曜日が印字された左ページに1〜2行分書けるようにこの日記帳は設計されているらしく、残りの右ページに関しては、左ページほどの規制はなく自由に書いていいよとのことだった。わたしは紙のノートを文字で埋めることがとても好きで、よく余白を見つけては落書きをする子どもだったのだが、この日記帳においてはそんな気持ちにもならず、いまのところは左ページに朝、右ページに夜、それぞれ書きたいことを書くようにしている、右ページに自由に書くということは、ここまできっちり行をつけている以上、なんだか未来の自分の書きたいことを奪っているような、そんな気分になるのだ。

 思えば過去の時間をどう過ごすかによってその後未来の自分にどう影響するかはよく聞く話だ、たとえばこの後の日暮れとき、スーパーでの買い物でなにを買うかによって、その後の夕飯のメニューに影響がすぐに出る、ハンバーグの材料を買うために挽肉を買いに来たのに、ふととなりの鶏モモ肉が普段より安いことに気がついて、結果唐揚げになる、とか。それもいいと思う、一緒に食べる人が許してくれるなら、それもいいと思う、だって、わたしの話になるけれど、人生ちょっと振り返ってみれば、わたしはまっすぐすぎたのかもしれない、ハンバーグと決めてしまえば、ハンバーグが夕飯に出す未来のために、スーパーでも挽肉しか目に入れない、そんな人生だった気がしている、だから人間としてあまり葛藤した覚えもないし、悩んだ覚えもない、たぶん悩んでいたとしても、忘れてる、忘れてるってことはそれだけ真剣ではなかったのかもしれない(話を聞いてくれた知り合いの方、ほんとごめんなさい)、周りの人と違う生き方を選んだ未来に絶望して歩く気すら起きない時もかもしれないけれど、わたしから見れば、周り道をした人の方が面白く、豊かに思う、だってスーパーで買うものに悩んでるひとは、苦しそうだけどしあわせそうだ、なににするか決められない、最初に決めたものすら忘れてしまっている、そんな不器用な感じが、なんだか今のわたしには愛おしく感じる、そんなのはどうなのだろうか、

と、昨日進路に悩んでいる10代の従姉妹と話をしてそう思った、時間があれば気が済むまでちゃんと悩んだ方がいい、社会人になってもまだじゃぶじゃぶ時間を使ってしょうもないことに日々悩むわたしにもはや説得力がないことは、今だけ棚の上に置いておく。

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