割れた食器

2021.12.21

 今年の春に、お気に入りの食器が割れてしまった。
 食事の後、いつものように洗おうと台所のシンクに置いた瞬間、静かに真っ二つに割れたのだ。本当になんの音もしなかった、わたしの「あっ」と溢れた声のほうが大きいくらいで。
 非常に高いものでもなく、世界にひとつしかないオンリーワンなものでもなく、京都ではそこそこ有名な大型の雑貨屋にセール品で売られていた。それは藍色の丸鉢だった。深い青に彩られたそれは手に取ると予想以上に軽く、朝トーストしたパンから夕食の炒め物を入れる器として、一人暮らしの食卓にちょうどいい大きさだったのだ。セール品だったこともあって、心の中で舞い上がりながらレジに向った。
 日頃使う食器は「もし割れても困らないように」と近所の100円ショップで揃えたものを使っていたが、選ばれてしまうのはやはり、ひとめぼれで買ったお気に入りの食器なのだ。一人暮らしの部屋で「えー」と落胆の声をあげた。けどもう一度食器をみた。まるで最初から筋を通していたかのように、食器は綺麗に真ん中で分かれていた。あまりにも見事な真っ二つだったので、シンクには細かい破片も落ちていなかった。透明なビニール袋に入れて、すぐさま携帯で「金継ぎ」と調べた。
 以前テレビか何かで金継ぎで割れた皿を修復しているのを知っていた。もしかしたらこれは、自分に新しい何かを始めさせるきっかけになるかもしれないと思い早速調べると、初心者でも出来る、と書かれた記事があったので、読んでみた。金継ぎを塗って、乾かすのに時間がかかるみたいだったが、読んでいるうちに「こんなに簡単に直るんだ」と感心した。金継ぎセットというのがあるので、次の休日に試しにホームセンターに販売されているのを見に行った。
 「これでお皿が直る」と春の空気を胸いっぱいに吸い込んで向かったのに、金継ぎセットの値段をみてあっけに取られた。一万円近くするのだった。初心者でも出来る、だからもっと安いと思っていた。しかも商品の裏面を読めば、セットの他にもいくつも用意しないといけないものもあるらしく、それらの文章は余計にわたしの心から金継ぎを遠のかせる言い訳にしか見えなかった。「割れたものは簡単に直せない」。さっきまで軽い足取りできた道を、重くなった心と足を引きずりながら家に戻った。
 つい先日、友人の家でパーティーがあった時も、酔客の手元から滑り落ちた白い大皿がぱりーんと漫画のような効果音を立て、フローリングの床の上で粉々に割れてしまった、そばにいたわたしは思わず、誰かが誤って踏んで怪我をしないようにと、飛び散った破片を素手ですぐに集めた、四つ目の破片を手に取った時、左手の中指を小さく切ってしまった、爪の近くに小さくて丸い血が浮かんで残った、ちょっと痛かった、でも誰にも言わなかった、やがて大皿と破片はすぐに回収されて、あっという間にゴミ箱に捨てられてしまった、もしかしたら高かったかもしれない、もしかしたら誰かが心を舞い上がらせながら買ったものかもしれない、でも粉々になってしまった白い大皿、同じ形に戻らないならそれは諦めるしかない、壊れてしまったものは元に戻らない、食器だけじゃない、建物も、自然も、機械も、人間関係も、直せなくなったら諦めて自ら能動的に離れるしか選択肢はない、泣いても逃げても誰かに八つ当たりしても、それはもう元には戻らない。そう受け入れるしかない。
 もうこの食器を捨てるしかないのかもしれない、と諦めかけていたところ、近所に住んでいた友人が金継ぎの経験があって、今でも日常的にやっているとの噂を聞いた。知り合って何年も経っている友人の意外な側面に、棚から牡丹餅とはまさにこのこと。すぐに連絡を取って、食器をみてもらった。快く引き受けていただき、藍色の丸鉢の真ん中に金継ぎが施されて戻ってきたのは夏の終わりだった。かえってきた後もすぐに前線にたってもらうわけにもいかず、少し休ませてからと思って気付けばもう年の瀬を迎えていた。
 そして昨日、金時人参とかぶの皮をきんぴら風に炒めた夕食の一品をその器に盛りつけた。砂糖とみりんと胡麻油でつやつやの一品になった。食べ終わった食器を、その時は丁寧に洗って棚においた。割れた食器が元に戻ってきたのはこれが初めてだった。

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