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「スゴい写真」って?

…何なのだろう?スゴい写真。

最近、非常に優れた野鳥の写真を多く見るようになった。
瞬間がもう凄くて、動きはしっかり静止してるし、ピントはピシッと合ってるしで、自分なんぞはもう脱帽するしかない。
それが例え、最新のテクノロジーも重なっての結果だったとしても。

良い事には違いない。
鳥の生態をみる上でも貴重な資料だし。
…ただ自分としては、鳥見はもっと気軽に、そして広範に広まっていってほしいと思ってる。
マニアックなものじゃなくて、誰しもが鳴き声を聞いて、そこから種類を導きだせるような…そんな生活に根差した趣味であって欲しい。
恐れるのは「第二の撮り鉄」のような分野にならないか?ってこと。

型式とか車両の組み合わせのレアさとかを好むのは、ある種のオタク性であると思うし、その事自体は興味からの純粋な欲求なので、端から見ていても好ましかったりもする。
困るのは、それに「独占欲」とか「名誉欲」とかのエゴイズムが加算されてしまうことで、そうなるともう純粋と呼ぶにはあまりにも傍若で、欲求の達成のための社会への影響を見ても、それは決して看過できないものになってしまう。

自分が恐れるのは、撮影という行為が「結果が全て」という方向性へと位置付けられていくこと。
…元々が写真というものは、位置付けがあやふやで漠然としたものであり、それ故に様々な可能性やマルチコネクトを果たせるメディアの筈。
その方向性を規定して、これは良い悪いと優劣を論ずる事は、技術そのものの向上「以外の」写真の可能性を消してしまう事に繋がっていくだろうと思う。
写真は学校の授業では無く、個人のIQを量るようなテストでも無い。
寧ろ言語のような…想いや目的を伝えるためのツールのような特性が、写真というメディアを輝かせるのだと自分は信じている。

老婆心だと思いたいが、鳥の撮影のために、彼等のテリトリーを侵すような輩が出現してくる事を恐れている。
自らの好きのために、鳥の生活や鉄道の運行を妨げているとしたら本末転倒だ。
「スゴい写真=良い写真」では、必ずしも無いんだ!と言うことを、言い続けていく必要が出てきてしまったのかもしれない。


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