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『おしゃれの平手打ち』


『おしゃれの平手打ち』という本を、20代の頃に何度も読んだ。
引越しの度に本を整理したけれど、ずっと手元に残している。

映画評論、随筆、翻訳でも活躍された秦早穂子さんの本だ。
秦早穂子さんは、1950年代のヌーヴェル・バーグ誕生の瞬間に立ち合い、まだ、撮影中だったゴダールの『勝手にしやがれ』を世界で最初に買い付けた方である。

マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、ローレン・バコールは、絹のブラウスの着こなしが飛び切りうまいが、彼女たち自身の鋭さ、美しさ、個性、重みが絹に対抗できるからだ。

大学に着く前に途中下車をして、一人で古い映画を見るのが好きだった。
まだ中身が子供の私は、好きな女優のブラウスのこなれた着こなしに憧れて、早く大人になりたいと思ったものだが、美しさや個性だけではなく「鋭さ」や「重み」が絹に対抗できる故であるとは、圧倒された。

流れるような文章と言葉選びで、魅了される本だ。

黒のストールの房のところに、小さな小さな赤の花飾りをつけて、いつも黒の服を着ていた女の人を忘れられないのは、見えがくれした花飾りのせいではなく、楽しげななかにひそむ哀しさのある着こなしのせいだったと思う。

黒いストールの、小さな小さな赤い花飾り・・・。
想像しながら、何度でも読み返した。



「ハンカチーフのやすらぎ」という文章も好きだ。

 だがなにより、ハンカチーフは、女の心のけだるさ、悲しみ、うつろさを表現してくれながら、そのひずみを補ってくれる。宝石をいっぱい持っている女より、ハンカチーフに気をつかう女のほうが、デリケートなのはなぜなのだろう?
 この小さきものは品質がよければよいほど、洗うたび、アイロンをかけるたびによみがえる。その時のなんともいえぬよろこびを知っているのは女。嬉し涙、悲しみの涙をふきとり浄化させてくれる。ハンカチーフは、女の存在のひそかな証である。

私が就職してからお世話になった先輩女性に、何かお礼をしたいと考え、母に相談したことがあった。
「そう。それじゃあ、帰りに銀座四丁目で待ち合わせましょう。」
そして母は、和光のハンカチーフのコーナーに私を連れて行った。
「この中で、その方にお似合いなのは、どれかしら?」
そして、イニシャルの刺繍を頼み、後日、お渡しして喜んでいただいた。
美しいレエスのハンカチーフを、特別な贈り物の一つとして頭に置こうと思った時、この文章に出会った。
きちんと折り目のついたハンカチーフを持つことで、自分の背筋も伸びる。
2枚をバッグに入れておく習慣だ。

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そして、この本の中で一番印象的なのは、
「岩塩(グロ・セル)のチキン」だ。
白のキャプリーヌ帽子を作ってくれたローザという女性の話である。

ある店の下職として働くローザの帽子は、素材も色彩も抜群で魅力的であり、いくつか注文するが、被った感じやちょっとしたことが気になる。

身寄りもなく、貧しいローザが岩塩のチキンとサラダを出してくれると、それは忘れられない逸品であった。
そのローザのやさしさに感じ入りながら、つい、聞いてしまう。
「あなた自身は、帽子をかぶらないの?」
「余裕がないものですから。」
とローザはぽつんと言う。

10年後、帽子は作らなくなったが、アクセサリーで店を持ったローザに会い、
そのことを詫びると、ローザは答える。

「いいえ、あなたは私の帽子に納得できなくて、私にかぶってもらいたかった・・・そこで感じてほしかった・・・アクセサリーが少し当たったのは、私のほしいものをまず作って、つけてみたことです。お客にもいろんな方がいて、ヒントになりました。なんといっても私の世界は狭くて全体が見えず、つい手の仕事だけに引き込まれてしまう。単に余裕・・・つける場とか、お金だけでもないのですね。それが少しわかってきたのがこのごろ」
ローザはむずかしい言葉は使わなかったが、エレガンスのもつたくさんの要素の、なにかひとつを表現しようとしていた。

ものを作ることを仕事にしていた当時の私に、気づきをくれた一文だった。
若いと特に、目先の恰好良さに目が行きがちだ。
しかし、大切なのは見た目だけではない。
外から眺めて見栄えがいいものを作るのではなく、使い心地や、触り心地、質感や、温度や・・・自分がその世界に入って考えていくと全体像が見えてくる。
独りよがりなものは、エレガントではないのだな、と納得したのだ。

今も読み返す。
とても好きな本である。




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