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「書きたい、言葉を使いたい・・・」

『サガンの言葉』という本。
文庫本についている栞が挟まれていた場所は、ここだった。

私は言葉が
好きなのです。
存在する言葉の九割は好きです。

今年の2月に出版されていた『サガンの言葉』孤独の名言集。

『悲しみよ こんにちは』について、出版社の社長に尋ねられる。

「あなたの小説がとても好きなのですが、これが自叙伝でないことを願います。自叙伝だと、普通はそれ以外に書けないからです」

「自叙伝ではありません。幸い私の人生にはこんな陰惨な話はありませんでした」

自分の経験しか書けないのがアマチュアで、想像によって制作できるのが本当の作家であろうことは理解していた。
しかし、若いサガンがそれを尋ねられていたというのは初めて知った。

自叙伝のように思われることは、時に煩わしいことだと思うし、逆に違う自分の演出にもなりうる面白さもある。
このような本が出るくらい熱烈に、ある作家を知りたいと思わせる魅力こそが、その作家の「創作の源」というものなのだろう。

「書きたい、言葉を使いたい、『悲しみよ こんにちは』を書き始めたときにしたいと思ったことは、本当にこれだけです。私は言葉が好きなのです。存在する言葉の九割は好きです」

九割が好きだと言われると、好きではない言葉は何か?と聞きたくなる野暮な私である。

ある時、子どもが「きらい!」と言った。
私は、「好きではない」という言葉に言い直させた。
聞いていたある人は、「同じだろう」と言った。

このニュアンスの違いを、私の子どもに知ってほしかったのを思い出した。

言葉は「使う」というくらいだから、道具でもある。
気持ちを表現する道具。
だとしたら、やさしく丁寧に扱ってほしいと願った。
そっと置くように大切に使ってほしい。
できれば、その響きも感じて使ってほしい。


「友達に望むもの」にある、サガンの言葉。
曲がり角をどうエレガントに、どう容易に曲がったか。

「ある歳になると、そうですね、四十歳くらいかしら。自分が曲がり角をどうエレガントに、どう容易に曲がったか自問するものです。私の友だちのなかには上手に曲がり角を曲がった人もいればそうでない人もいるわけです。自分たちと比べて、私の方が曲がり角をうまく曲がった、と彼らが思っているかどうかは知りませんけれど。」

自らの言葉や行動について、自問することの意味を日々痛感する。
歳を重ねて周りが見えない行動をすることの怖さは、自問することでしか防げないような気がする。
納得のいく自分であるためにも。



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