見出し画像

言葉 と「空気の研究」という本

歌うように、笑うように、美しい言葉を紡ぎ出せたらいい。
そのために、きらきら光る水晶のように、心を澄ませたいと願う。

日本語は、遠回りをすれば綺麗な言い回しができる言葉であると思ってきた。
季節のうつろいや、その色彩を、形容詞として散りばめることができる。
季節の行事や、花、景色、水音。
それらを感じる繊細さは、美しいことに思える。


もしも、伝えるべき『言葉』を失ってしまったら・・・。

アンデルセンの「人魚姫」は、魔女と取引をした人魚姫が、足を手に入れる代わりに、舌を切られ声を失う。
声を失い『言葉』を表現する手段をひとつ失った。
(手話や筆談という手段はあるけれども)
そこまでして愛した王子とは結婚できずに、「海の泡」となってしまう。
人を思いやる気持ちも、怒りも、悲しみも、上手く表現することができないことは、大きな葛藤となるはずだ。

私の母は、失語症になったことがある。
身近にいる者には、必要事項も、自分の気持ちも伝えられない悲しみがわかった。
母は、ただ泣いて、しかし、諦めずに言語療法士の元に通った。
書けなかった文字も、少しずつ取り戻した。
ただならぬ努力を要した。
もし、自分だったら、と考えたら、そのような強さを持てるかどうか自信がない。

この世には、失語症だけではなく、病気や先天的な何かで話すことができなかったり、他の手段を使っても上手に『言葉』を表現できない方がたくさんいる。

一所懸命伝えようと努力をしても、
聞く心の余裕がない、世間の冷たさを感じた。

『言葉』は、声にすることだけではない・・・そう思い、絵画療法を習った。
元々、私の言葉は絵画であったかもしれない、という原点に戻ったのだ。

心の中にないものは、描くことはできない。
心にあるものを絵として表現してもらい、その景色を読み取る。
描かれた絵は、声としての『言葉』にはならないが、間違いなく、描いた人の『言葉』である。

誰にも言えないことが、ストレートに絵になって出てくる。
そして、絵にしたことで怒りがおさまったり、悲しみが癒えたりするのだ。
心ない『言葉』に刺され、傷つけられ、『言葉』を失った人も、
「声」ではない『言葉』で語るのだった。


人魚姫の話に戻ると、アンデルセンは、これを悲劇とせずに、ハッピーエンドにしたかったという話がある。
人魚姫は、「海の泡」になった後で、「空気の娘たち」に変わるのだ。
「空気の娘たち」は、300年の間に、良い行いをすると、不死の魂を授かった上に、永遠の幸福を手に入れることもできる、と説明されているそうだ。

『言葉』を伝える術を失い、海の泡を経て、最後は空気になる人魚姫。
よく「空気を読む」というが、
それは秘められた『言葉』を感じることなのだと思う。
「察する」という美徳が日本人にはある。
気持ちや事情を感じ取る、思いやる。

『言葉』が全てではない。
『言葉』は「空気」でもあるように思う。
手の温かさを感じるだけでも、気持ちは伝わる。

それでも私は、自分を照らし気づかせてくれる、知恵のひかりのような『言葉』がほしい。

言葉は、知恵であるといいな、と思う。


※『「空気」の研究』は、大学時代、何かの授業の教科書として使われた。
  40年以上も前の本らしいのに、今の時代にも古くない気がする。


#ことば展覧会へ出品させていただきます。よろしくお願いいたします。

書くこと、描くことを続けていきたいと思います。