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反応を惜しむな

いつだろうか
フォロワーに誕生日おめでとうとかあまり言わなくなったのは
面倒になったからだ

たった数十秒で書ける文を1行2行書いていいねするかコメント返すだけのやりとりに意味があるのかと思っていた
つまりは、そんな簡単なことをエネルギーの浪費に感じてしまうほど心の余裕を失っていた
承認欲求を満たすための生産的活動をするのに自分を忙しくしてしまった

後日、何かいいことを書いたつもりなのに、頑張ったつもりなのに、思ったより反応がこなかったことがあった
しばらく悔しさでSNSの更新ボタンを猿のように押したり、なんでと意味のない自答を繰り返してみたりした

その時ふと頭の中で問いが生まれた
「自分は誰かに反応していただろうか?」

もちろん答えはNo

そして、「反応」という言葉に過去の出来事を思い出した

私の人生を変えたと言っても過言ではなかった小学六年生のときの担任

その担任の口癖は

「反応をしろ」「自己表現!」

だった

誰かが発表をしても質問も挙手もせず周りをキョロキョロしてばかりの私を含めたクラス全員に向かって言った言葉だ

担任が口を酸っぱくして毎回言っていたおかげで、半年経つ頃には皆が挙手し、拍手し、「反応をする」にぎやかなクラスになっていた

クラスの皆が人前に出ることや、挙手すること、自己表現をすることを恥ずかしく思わないでいられたのはまず「反応」があったからなのだ

それなのにもかかわらず、自己表現して認められた快感を知った私は承認欲求を膨らませるばかりで、気がついたら周りの人の承認をせずどこかつまらない奴のように見ていた

つまらないやつかどうかを見る時に生産的か否かのジャッジが大きかったが、今思えばそのジャッジそのものが非常にナンセンスだ
つまらないジャッジとめんどくさがりが悪魔合体して、承認欲求と傲慢さが残った

本当につまらない奴は私だった
そうして、誰かの承認と反応を惜しんだばかりに自分に向けられるそれらだけでなく自信までも失ったのが最近だ

この記事を見て、大事な昔の出来事を思い出した

自己表現も大事だが、それ以上にまず誰かに反応をするのが大事だ
誰かに反応することのあたたかさを思い出した


思い出させれてくれてありがとう
そして、忘れてしまっていてごめんなさい

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