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わからないことだらけ

1年間は地獄の日々であった。
何度辞めようと思ったかわからなかったし、
日々辛かったことを覚えている。

授業もそうだが学校の仕事、いわゆる校務分掌と呼ばれているものもさっぱりわからなかった。
会議、打ち合わせで何を言われているのかがさっぱり理解できない。
一言も喋らず終わることも多かった。
何を話し合っているのかも全くわからないのである。

他の先生方は普通にやり取りをしているのに、
自分だけがわからないでいる。

当時は若い先生はいなかった。
採用数が減っていて、
ちょうど自分たちあたりから採用数がまた増え始めていた時期だった。
だから若い先生が入ってくるのは久しぶりのようであった。

色々とわからないことだらけであった。
それも苦しかったし、
24時間先生でいるような感じもしていた。
休みの日も色々と気になって落ち着くことはない。

他の先生たちは大変ながらも普通に業務をこなしているように見えたが、
私は何をすればいいのか、
また、することがわかっても、
どうしたらいいのかもわからなかったのである。


授業ができない。
子供との関係が作れない。
校務分掌がわからない。

色々と悩むことばかりであった。

それでもなんとか1年間はやり遂げたいと思っていた。

当初の目標は、
「1年間学級崩壊しない」ことだった。

今考えると学級崩壊はしていなかったと思う。
ただ、あまりにも元気だったし、
とにかく勢いだけで突き進んだ感じだった。

今の学校はどこでも当たり前のように学級崩壊はある。
当たり前になりすぎてもはや話題にも上がらない。
ニュースでも取り上げられることは少ない。

各学年どこか1クラスは学級崩壊をしているのが当たり前になっていると思う。
そして不登校児も各クラスに1名ずつくらいはいると思われる。
何かしらの不適応を起こしている子もクラスには数名いる。

20年前よりも今の方が学級経営のハードルは上がっているだろう。
そして今は子供の指導にも気を使う時代である。
言葉を選ぶ、態度も気をつける、そういう指導をしないとすぐに「不適切な指導」と言われ、
さらに進むと「体罰」と言われる。

今自分が新規採用の初任者で担任をもつとなれば、
1年間もたないかもしれない。

当時だったからなんとかなったのかもしれない。
それでも辛いことは辛かったが。

唯一、子供たちは私のことを嫌うことはなかった。
表立って何か酷いことをしたりということもなかったし、
裏でもそういうことはなかったと思う。

普通に素直ないい子たちだった。
ただ、自分の技量、力量が全くなかっただけであった。

私の教師1年生は子供たちには本当に申し訳なかったと思っている。
今ならばまだマシな先生をやれたと思うから。

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