わたしの庭<リョウちゃん椿>

わたしの庭の椿の木。種から芽生えて、10年ぐらいになるのだろうか。木の高さは、130センチほど。
山茶花の横に種を埋めただけで、なんの手入れもしていないが、芽がでると、生長が楽しみになった。木の高さが七、八十センチになったころ、初めてひとつだけ花を咲かせた。
今年は、四つ、つぼみがついた。

この椿の種を拾った日のことを、わたしは、いまでもおぼえている。

そのころ、自閉症のあるリョウちゃんを、自宅から某授産所に送り届けるのが、社会福祉協議会に身を置くわたしの任務だった。リョウちゃんは、二十歳そこそこの唇の赤い美青年だった。後ろから見れば、小さな母が大きな息子を連れて歩いているように見えたかもしれない。

朝8時ごろ、リョウちゃんの自宅へ迎えに行き、バスと地下鉄を乗り継いで、作業所に送り届ける。
リョウちゃんは、赤い色に敏感だった。
赤い座席に座りたがる。
赤い色の服を着ている人に触りたがる。
バスや地下鉄に乗るときは、赤い服の人から遠ざけるよう、気をつけた。

その日、地下鉄の駅から地上に出るために長い通路を歩いていると、リョウちゃんが壁に手をのばした。
しまった、と思ったときは、おそかった。
リョウちゃんは、赤い非常ボタンを押したのだ。いつもは人通りが多く、壁のボタンは目につかないが、その日はなぜか通行人がまばらだった。

けたたましく鳴り響く非常ベルの音。
リョウちゃんは、顔色をかえ、両耳をふさぎ、なにやら叫び始めた。
こんなところで、パニックになられてはたまらない。

わたしは、リョウちゃんの手を引き、息を切らして階段をかけ上った。
信号をふたつわたり、裏道に入ると、すぐに作業所だ。
わたしは、リョウちゃんを送り届けると、駅に引き返した。
おおさわぎになっていたらどうしよう、パトカーが来ていたらたいへんだ。わけを話して謝らなければ。
謝罪の言葉を頭の中にならべながら、駅へ急いだ。

駅では、非常ベルがまだ鳴り続いていた。
しかし、大騒ぎにはなっていなかった。
パトカーも来ていなかった。
駅に下りて行く人も、地下から上がってくる人も、こんなことには慣れているといわんばかりに平然としている。

「すみません」と、わたしは駅長室のドアをあけた。駅長さんかどうかわからないが、まだ若そうな駅員さんがそこにいた。
わけを話し、ペコペコ謝った。
「ああ、あれね」
彼は、微笑みながら応対してくれた。
「業者でないと、止められないんですよ。いま、連絡したところ」

誰も一大事とは、思っていないようだった。
非常ベルが鳴り響いているのに。
ほっとしたような、ひょうしぬけしたような。そのまま電車に乗る気になれなくて、わたしは、地上に出た。

その駅のすぐ近くに、公園があった。
わたしは、公園のベンチにこしかけて、さっきのハプニングを、事業所に携帯メールで報告した。
ベンチの後ろに、大きな椿の木があり、赤い花が咲いていた。
濃い緑の壁に、赤い非常ベルのボタンが、いっぱいはめこまれているみたいだった。
椿の種は、その木の下で拾った。

リョウちゃんが、いまどこでどうしているかはわからない。
わたしは、花を咲かせるようになった椿の木を、ひそかに「リョウちゃん椿」とよんでいる。





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