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フィレンツェからパリへ行った理由


最初のイタリア留学の時、
フィレンツェからパリへ向かったのは
ほんの気まぐれだった。
最初から計画していたわけじゃなくて。


一年の予定で来た留学期間も
8ヵ月ほどを過ぎると、
一緒に楽しく過ごしていた友達たちは
次々と帰国して行き
いつの間にか、取り残され状態。


現地で見つけて通っていた
私立の美術学校も、
その頃は生徒が 私を入れてたった3人で、
しかも学校の財政難とかで(💦)
デッサン用のモデルも来なくなり


毎回、授業というよりは
静物や お互いをモデルにして
一応、デッサンを描きながらも


先生も一緒になって、皆で
カフェとクッキーで
おしゃべりする時間の方が多い日々だった。
(ちなみに こういう『ゆるゆるさ』が
許せない!😡 という人より、
おもしろい🤣 という人の方が、
イタリアには向いています😉)


私は時々、
街のツーリストインフォメーションに足を運んでは
イタリア語や英語、たまにある日本語の
フリーペーパーや
街のイベントのフライヤーなんかを
もらってきて読むのが習慣だったんだけど、
(基本的に活字中毒★)


ある日 フリーペーパーのなかに
< Institut français >
という場所での、イベント記事を見つけた。


それを見て、なんとなく思いついた。


フランス…
パリに、行こうかな…


その住所の
その場所に行ってみると、
予想通り
フランス文化会館みたいな所らしい。


オフィス部門っぽいところへ
のこのこと入って行って
「パリの語学学校へ留学する手続きなどは、
ここで出来ますか?」
と聞いてみた。


「もちろんよ。パリに行きたいの?
お手伝いできるわよ」


やさしそうな女性が
座っていた椅子ごとこちらへ向き直って、
応対してくれた。


パリの語学学校のリストと
滞在方法に関しての資料と
料金表を受け取って、
「留学斡旋手数料はいくらになりますか?」
と聞いてみると、
日本円で2000~3000円くらいだった。
(ちなみに1998年の1月。当時の通貨はまだリラ)


語学学校への入学手続きと、
滞在(ホームステイ)の手配を頼んだ料金。


これ…
純粋に、連絡のための実費+α 
くらいしか、とってないよね。


1997年に最初にイタリア留学した時、
私はとても良い出会いをしていたらしく
適正価格の斡旋料金のところに
お世話していただいたんだけど


(正確にはいくらだったか憶えてないけど、
高いと思わなかったことは憶えてる。
2000年に渡伊した二度目の留学では、
ネット環境も世界的にある程度
進み始めていた時期だったので、
HPを開設していた語学学校へ
直接メールを送って連絡をとり、
全て自分で手配した)


フィレンツェに来てから知り合った
他の日本人留学生たちの話を聞いていると、
留学斡旋手数料に10万円払った
という人もいたりして


どこにお願いするかによって、
ずいぶん金額が変わるものなんだな…
という印象があった。


もとい。


貰ってきたその料金表を見ながら、
生活費のことも考慮しつつ考えた。


もしここで国を変えて移動しても、
経済的負担が、予想よりも重くない。


イタリアリラよりも
フランスフランは、
日本円に対して価値が高かったけど


貯金の残りから概算しても、
このパリ行きの計画に
さほど無理は出ない計算だ。


私は状況的に身軽であり、
ここに残りたい気持ちも、もうそこまで強くない。
(フィレンツェって小さい街だし、
「もうぜんぶ見た」って感じで)


そして来月…
アパート契約の期限が切れる。


もう数ヵ月更新するか? 
終了するか?


私はパリに行くことにした。


という経緯で、
いきなり決めて
いきなりフランスに行きました。


良い決断をした 
といまだに思う。 


とても楽しかったし
美術館にも何度も、ゆっくり通えたし。


イタリアとフランスの空気の違いを
肌で感じることが出来たのも、
私にとっては良い経験だった。


心が動くままに従うと、
自分にとって 良い結果になるみたいだね。

 
行動するか しないでおくか
今いろいろなことに迷っている皆さん、


< 自分の心が行きたい方へ >


たぶんこれ、まちがってません。


人って「しなかったこと」に対して
より強い後悔をする傾向があるらしいし、
私自身は 予定外に行動して
とても良い結果になったから。


先ずは「冷静な計算と判断」をしてみて、
もし「無理のない予測」がたつなら


あとは「勇気」とか
「不安を抑えて行動に移せるかどうか」の
自分の問題。


やってみなよ、
きっと出来るよ!


あおらせてもらいます♪


この時の私は
<スーツケース1個で移動できる留学生身分>
という身軽さだったから出来たこと
…だとも思うのだけど、


今思うと あの場合でも
ただ「滞在するだけ」の旅行者ではなく、
「学校に通う」目的であったなら 


もしかしたら一応、
イタリアにあるフランス大使館で
学生ビザをとるべきだったのか?? 
など
私も、いろいろ解っていないまま
ノリで計画し、実行していたことは否めない (💦)


まぁ、でも 
フランス滞在90日は越えないようにしたし、
まだ20世紀でしたし…… (遠い目)


その頃はまだ 共通通貨ユーロではなく
それぞれの国ごとに
使っている通貨が違っていたから、
出発前に銀行で
とりあえず必要と思われる金額のフランを用意した。


(フランスに到着した後の
ホームステイ先までの交通費とか、
携帯のない時代だから
万一の時の公衆電話用の小銭とか、
お腹がすいた時にパンでも買う用の
小銭の必要性が考えられたので)


フィレンツェは観光都市だから
外国通貨を取り扱う銀行は多く、
銀行が開いていない土日でも
街じゅうに両替所はたくさんあるので
その点は不便はなかった。


CITIBANKシティバンクに口座を持っていたから、
どこの国でも シーラス(Cirrus)のATMがあれば
現地通貨で引き出すことは出来たけど、
その街のどこに、そのATMがあるのかなんて
旅行者は、現地に行ってみないとわからない。


だからイタリアで当座のフランを調達したわけだけど、
今はユーロだから両替の必要もなく、
もっと便利だよね。


フィレンツェからパリへは、
夜行列車で向かった。


その時点でまだフィレンツェに残ってはいたけど
それぞれがもう帰国の予定を控えていて、
数ヵ月後には
お互いバラバラになることがわかってた、
仲良くしてくれてた友達たちが
みんなで私を駅まで見送りに来てくれて


みんなの優しさに感謝したし、
とても嬉しかった。


実は出発の日の当日は、
アパートの引き渡しやら
書類手続きやらが午前中にあって、


その前の週から、
自分の荷づくりとか
アパートの大掃除とか
知り合いへの挨拶とか、


いろいろ準備で てんてこ舞いしていたら
体調を崩してしまい、熱を出してた。 


誰にも言わなかったけど、
言ったところで
予定変更なんて出来なかったしね。


パリに行けることが嬉しくて
ワクワクしていたのに、
体調のせいだったのか
いざパリ行きの列車に乗って、
窓からみんなと 
お互いに手を振り合っているうちに、


不安や淋しさが
むくむくと大きくなっていって 
とても怖くなって、


やっぱりここから降りて、
みんなとこのまま
一緒に居たくてたまらなくなって、困った。
泣きそうになったし。 
(というか たぶん少し泣いてた。バレてたかな…)


具合が悪かったので、
夜行列車内の細かい内装などは
残念なことに あまり憶えていない。
せっかくチケットは 
女性用の1等車をとっていたのだけど。


「2等列車の夜行は危険だから
女性は1等車に乗りなさい」って、
ガイドブックのどこかに書いてあったし、
この旅では、
全財産 (荷物) も一緒だったしね。


普段はどこか別の街に行くときは
2等車のチケットしか買わないんだけど、
必要な時には
<お金で買える安全は積極的に買う>
のが私のスタイルなので、
そこはお金かけた。


翌朝、着いたのはたしか
サン・ラザール駅か 
リヨン駅だったと思う。 


自分のコンパートメントから出口のドアまで
重いスーツケースをずるずると引き摺りながら、
早くステイ先に着いて安心したいよぉ、
と思ってた。


でも実際のところまだ
どんなステイ先で、
どんなホストファミリーなのかは未知数だから、
どれくらい安心できるのかは 判らなかった。


その心配も含め


フランスという、まったく違う国。
知り合いなど一人もいない。
初めて降りる駅、
暮らしたことのない街、
更に
この国の 言葉も解らない…
(&英語は嫌われる ←というウワサ)


ある種 絶望的な不安と緊張、
身体の疲れ、
おまけに熱はあるしで
気持ちは半ベソなんだけど、
弱みを見せるわけにはいかない状況だったから
(安全保障上…)


駅のホームに降りて、
私のトランクを
重さによろめきながら(😅スミマセン) ホームに下ろしてくれた
1等車両の車掌さんに


「グラツィエ」と
イタリア語での、最後の挨拶をすると


顔を上げて 背筋伸ばして
「慣れてますけど何か?」的な表情つくって
力いっぱいスーツケースを引っ張り、
なるべく早足で 
まっすぐにタクシー乗り場へと歩いて行った。


「ボンジュール!」と元気なフリして
タクシーの運転手さんに挨拶すると、
ホームステイ先の住所のメモを見せながら
「シィルヴプレ」とだけ、一言言った。


あとは メルシィ と オヴォワ 
だけが私の知ってるフランス語だったので
タクシー内では無言で景色を見る(笑)


雨上がりの、きれいに晴れた朝だった。


道路のあちこちに残る水たまりにも
光が反射して、
冬の冴えた空気の中で
風景が細部までクリアに、輝いて見え、
この街に
「ようこそ」と 歓迎されている気がした。


そこは20区にある、大きな高層アパートだった。


インタフォンを押すと、
フランス語で
女性の明るい声が答えてくれたあとに
「こんにちはー」と
日本語が聞こえた。
「迎えに行きますから、待ってて下さい!」
その声も、明るい女性の声だった。


日本人がいるー!!!


もう、どれだけ安心ホルモン
(正確には何てホルモンですかね?)
がこみ上げてきたことか。


別の意味でまた
半ベソ状態になりそうでした。


しかも にこやかに降りてきてくれた日本人の女の子は、二人もいた。


一人は、私がお世話になる家にステイしている子で
もう一人は、その子のお友達。
この日の朝、
イタリアから到着する私を出迎えてくれるために
わざわざ来てくれていたそうだ。
(アリガトウ🥹)


イタリアで手配をお願いしたところからは
他にも語学学校の生徒がステイしている家
だとは聞いていなかったし、
ましてや
それが日本人だったなんて知らなかったから、
意外だったし、嬉しかった。
フランス生活の初歩的なことを
日本語で教えてもらえるなんて、
すごく恵まれてました。


大家さんのフランス人マダムも
とても優しくて明るい人で、
その家には他にもう一人、
アメリカ人の10代の女の子がステイしていた。


用意して下さっていた部屋も
清潔で、窓からは太陽の光がよく入る明るい部屋で、


有難いのと、
安心したのと、
嬉しかったのとで、
思わず ふにゃ~ と 
くずおれそうになりました。


その日は、その二人の日本人の女性たちに
さっそく 
近くのカフェに連れていってもらって、
パリでの最初のカフェオレを飲みながら
いろいろとパリの話を聞かせてもらっていたら、
熱があることなんてすっかり忘れた。
(でも翌日寝込んだ)


パリでの様子を教えてね っていう約束をした
フィレンツェの友達たちに
早く絵葉書を送りたくて、うずうずした。


(↑絵葉書で消息を知らせるっていう、
そういう時代があったんだよ。
けっこう良い時代だったんだよ、
私なんて今だにやったりするよー♪)


というわけで
フィレンツェへのイタリア語学留学が、
パリでのフランス語学留学にもなった経緯でした。


〈陸続きのヨーロッパ〉
という利点を活かした、
二ヶ国語習得・実践チャレンジ♡


初歩的なレベル (旅行会話程度)なら
フランス語でも 交流可能になれたので、
移動した甲斐はありました✌️


長くなってしまったので
パリでのお話は
また別の機会にしますね😉


おつき合い
どうもありがとうございました!
m(_ _)m ペコリ☆



書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡