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勉強して将来役に立つの?に対する大人の答え


当方、相当に未熟ながら生意気にも塾でバイトをしている。

日頃から厚顔無恥に知識をひけらかしているわけだが、
先日、女生徒に「こんなの習っていつ使うんですか?」という質問を受けた。




正直な感想としては「キターーーー!!!」であった。


青少年の素朴な疑問の代名詞と言ってもいいようなセリフである。
偶然化石を掘り当てたような感動とともに、過重な責任が降り注いだ。
私の返答によっては、この生徒の学業に対するモチベーションが激減してしまう。(逆に気の利いたことを答えられればやる気を出してくれるかもしれない。)


確かに私が中・高生の頃にも似たような疑問を持ったことがある。もちろん勉強の全てが無用だとは思っていないが、一部の単元やいくつかの授業に関しては、なぜほとんどの学生に必須とされているのだろうかと批判的に考えたことはある。
というか多くの人が同じようなことを考えたことがあるだろう。

私は周りの友人との愚痴交換会で披露した程度だが、例の学生は大人に答えを求めてきたのである。一人の大人としてはやはり腑におちる回答を授けたい。無論完璧な答えなど存在しないのだろうが。



ところで、この問題に関しては立派な大人でも頭を悩ませているらしい。
以前、ある議員がX(旧Twitter)で「三角関数よりも金融経済を学ぶべきではないか」と投稿し議論を呼んだことがある。もちろんSNS特有の曲解や極論によって過剰な反応があったとは思うのだが、最終的には予備講師の方が発言撤回の要望書を議員の事務所に提出するまでに至った。

後日、彼は朝日新聞の取材で「三角関数不要論」ではなく、「実学重視論」であると主張していた。つまり、現在の高校教育では、基礎的な学問や教養に重きを置いているが、もっと多くの人の実生活に活きるものを重視しても良いのではないかという趣旨の発言であったという弁明である。



日本の学問といえば、かの有名な福沢諭吉がいる。
彼の思想も「実学」を重視したもので、実学を修めることで、士農工商おのおのが「独立」することを目指した。独立に関して、詳しくはさまざまな含意があるが、大意としては万人の「経済的自立」を目標としている。そう言った点で、日本の資本主義経済を推し進めた人物である。

きっと福沢も三角関数よりも金融経済の方が大事だと言うだろうし、むしろ現代において金融教育よりも重要な学問はないとさえ言うかもしれない。
もし彼が現代にやってきて、Xで議論を交わすようなインターネットの住人だったなら、例の投稿に対して「よく言った」と称賛の意を表するだろう。
彼ほどの人が賛成すれば、否定的な立場をとった人は明らかに減少するのだろう。まさに鶴の一声である。




翻って、かわいい生徒を救いたい私に意識を戻すと、彼女に上記の論を展開しても全く効果がないどころか逆効果になってしまうだろう。「実学でなければさほど価値はない」と言う意見を助長してしまうし、何より説明が冗長である。

しかし、例の議員の発言が多くの人に否定的に捉えられたということは、基礎学問や形になりにくい哲学などの学問に重要な価値を感じる人が多く存在していると言うことである。
つまり、彼女にもそういったことを伝える義務が私にはあるのだろう。


では、基礎学問や哲学が隆盛を誇っていた古代ギリシャに思いを馳せてみよう。

古代ギリシャでは、自由市民と奴隷に身分が区分けされていて、自由市民は労働を奴隷に任せることができた。
この時に生まれた暇(スコレー:skhole)を利用して学問をしていた。
(余談だが、このskholeが変化して現在のschoolになっています。)

この時に生まれたのが自由七科といい、文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽である。
この頃といえばプラトンがアカデメイア(現在の学校のようなもの)を設立したことも有名だが、これは彼の哲人政治の思想を反映している。

つまり、上級の市民が自由な時間を使って進んで学んでいたということであり、それを発端の一部として、現在の教育が組まれているということである。
当時の人々は単純な知識欲から進んで学問していたということになるが、その精神の全てが現在まで受け継がれているわけではないようだ。


学問する意味とその価値について


現在では、内から溢れる知識欲に駆られて学ぶ人間は研究者やオタクという人種に分類され、小学校〜高校・大学での広い学びはステータスの証明程度にしかならない場合もある。むしろ出身大学を通行証にして、就職を目指す。言ってしまえば、手段と目的の関係ができあがってしまっている風潮がある。

現在の教育のあり方は体系だったもので、学問をシステム的に扱う観がある。
しかし、私の意見としてはこの全てを否定的に捉えてはいない。

私は、学問というのは内在的な知的意欲によって行われて然るべきと思っている。一方で、教養と捉えると、それは意欲の源流によらず備えておくだけで十分だと思うし、それを努力の証拠としてある意味で通行証にしてしまっても良いのではないかと思う。

そういう意味で、知識・学問に愛がある人間を人種分けすることは必然であり適切な扱い方の一つだと思う。


したがって、初めに記した女生徒からの質問に対しては、まず彼女が研究者やオタクの卵なのかそうでないのかによって教育のあり方を解く方法が異なる。
しかしながら、彼女は学問に対して意味を求めているのだから純粋な知識への愛というものにまだ気づいていないのだろう。
ただ、私は少なからず塾で教鞭をとる立場であるので彼女にはそれなりの通行証を与えてやる必要がある。ここで彼女のやる気を削ぐことはできない。


悟られないようにしながらも、そうやって若干の逡巡をした後に結局、
学校の勉強を好きっていう人はあんまりいないでしょ?いたとしても全部の科目が好きって人はほぼいないはず。その中で、この人はどれくらい頑張ることができる人なのかなって調べるのがテストとか入試だよ。だからどんな教科でもその人の努力する力を鍛えるためにやるんだよ。
という返答をした。

当たり障りのない回答になってしまった。それでも嘘はつきたくないし、長々と難しい話もしたくない。そんな中での折衷案としては個人的に満足している。

当の彼女もとりあえずは納得して帰って行った。

これからもこの議題は度々議論になるだろうし、その度完璧な答えは得てこないのだろう。誰もが納得するような答えを出す必要はないし、不可能かもしれないが、自分の腑に落ちる答えを用意しておくことは価値があるかもしれない。
今回のように誰かに問はれるかもしれないし、やはり何かを学ぶことは直接的に成長につながるからである。


子供の頃に大人は実態以上に大人びて見えたものだ。自分の知らないことをなんでも知っていて、教えてくれる。
でも大人になってみると知ろうとしないことは結局知らないままだった。
精神的な成長は全自動ではなかった。

それならば手回しでもいいから、ちょっぴり背伸びをするために爪先立って本でも開いてみる。
学問ももとは暇つぶしだ。そうであるなら意味も求めず触ってみるのも、きっと間違いではないはずだ。たぶんね。


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