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「Stray」感想(ネタバレ有り)

 お世話になっております、あなたの四葉静流です。

 先日、「サイバーパンク的世界の中を、猫を操作して冒険できるゲーム」として、かつてネット上で話題になった「Stray」(PS5・ダウンロード版)を遅ればせながらプレイしました。既にクリア済みですので、その感想を備忘録も兼ねて綴りたいと思います。最後までお読み頂けたら幸いです。

 途中でもう一度注意書きを入れますが、この文章には物語終盤とエンディングに関する重大なネタバレを含みますので、未プレイ・未クリアの方はお気をつけください。

 また、これをお読みくださる方は既にStrayをクリアした事を前提として、本作の基本的なストーリー・世界観・ゲーム性などの説明は割愛します。



 Strayをクリアした。

 昨今のオープンワールド系ゲームと比べると若干ボリューム不足が否めないが、グラフィック・世界観・本作特有のギミック・パズル要素とアクション要素の緩急など、比較的短いゲームながらも高い次元で纏まっている作品であった。

 そもそも、「ボリューム不足」と述べたが、人員と予算が多く注ぎ込まれたいわゆる「大作」と比べるのは間違いだろう。それはトールキンの「指輪物語」とウェルズの「タイムマシン」のどちらが優れているかを言い争うようなものだ。単純な比較ができるものではない。

 それに加えてStrayは、「主人公が猫である事」の利点を最大限に活かしきった作品に見受けられる。これにゲームとしてのボリュームを付け足すならば、ゲームデザイン・ゲームシステム・世界観・ストーリーなどが複雑化する事を意味している。それはおそらく雑味にしかならないだろう。本作は比較的小規模のスタジオで制作されたと聞く。もしもStrayが「大作」を目指していたのなら、ゲームとしてのクオリティーどころか、発売さえままならない状況に陥っていたかもしれない。そのような意味でも、本作のボリュームはこれが適切だろう。

 個人的な主観で本作の最も良い点を挙げるとするならば、それはゲームクリア直前のエンディングムービーだ。それは、私個人が「制作スタッフがプレイヤーに一番見せたかったもの」と感じられるような、ある種の哀愁と美しさを秘めたものだった。それについて、個人的な感想を述べていきたいと思う。

(この先は、ゲームストーリーの核心的部分、いわゆるネタバレを含みます。未プレイ・未クリアの方はご注意ください)


























 まず最初に、ゲーム終盤のストーリーを要約して説明する。

 アウトサイダー(地下世界からの脱出を試みる者に対する呼び名)たちの協力を得て、主人公(猫)とB-12は地下鉄のキーとバッテリーを手に入れる。それを用いて地下鉄を作動させると、辿り着いたのは最上部に位置するコントロールセンターとそのロビーであった。

 これまでのスラム街やミッドタウンで目の当たりにした生活感とは打って変わり、最上部はまるで建設当初から時が止まったかのような清浄感に溢れた空間であった。清掃ロボットに話しかけると、これまで交流してきた者たちと異なり、最上部のロボットはまさに機械的な、あらかじめプログラムの中に組み込まれているであろう文言を繰り返すのみであった。

 地下世界の出入り口となる隔壁は固く閉ざされており、主人公とB-12はそれを開けるべくコントロールセンターのシステム復旧を開始する。その行動の中で、復旧まであと一歩のところで電子的なロックがかかってしまう。それを解除する手立ては簡単に見つけられたが、全部で3つあるそれを1つ解除するごとに、絶対的なマシンパワーが不足しているB-12の内部回路は物理的なダメージを負ってしまう。なんとかロックを全て解除し、残るは最終的なシステムへの介入のみとなった。そこでB-12は主人公へと優しく話しかける。

 これまでのロック解除ではなんとか持ち堪えたが、最終的なシステムへのアクセスは、一介のドローンに過ぎないB-12の体では負荷が大きすぎる。間違いなく、物理的な体は耐えきれず、精神はシステムの中に溶け込むだろう。これまで最後の人間(の精神)として地下世界の脱出を目指してきたが、コントロールセンターに辿り着いた時には覚悟は決まっていた。自分の目標を捨ててでも、ここまで苦楽を共にした親友の為にここへ残る覚悟を。

 B-12がシステムへアクセスすると、光が消えたB-12は床に転がった。主人公もまたコンソールから床へと降り、B-12に寄り添って眠りについた。

 B-12のアクセスは成功していた。主人公が目を覚ますと、広大な地下世界と外界を隔てていた天蓋が開いており、その大穴から地下世界へ本物の陽光が降り注いでいた。多くのロボットたちが恋焦がれていた、人工物ではない本物の空だ。主人公に協力していたロボットたちはそれを見上げて、主人公の成功を察する。

 B-12の亡骸を残し、主人公はコントロールセンターを後にする。すると、ロビーの隔壁が開き始めた。堅牢なそれを通り抜けると、そこは地下世界を訪れる前と同じく、人工物に青青と茂る蔦が絡まっている光景だった。主人公は更に進んでいく。

 主人公を待ち構えていたのは、地下世界に迷い込む前と変わらない青空であった。おそらく、ここまで来れば家族との再会は難しいものではないだろう。主人公は一度だけ振り返る。そして、どこかへ去っていった。

 地下世界の隔壁近くの、蔦に覆われた壁面に設けられた電子機器の光が瞬いた。それはまるで、システムの中に溶け込んだB-12が主人公に別れを告げているようであった。

 以上がゲーム終盤の展開である。

 これを読んでいるあなたは、このエンディングムービーにどのような感想を抱いたのであろうか。少なくとも私には、このゲームをプレイした事に見合う報酬であり、連綿と続くSFの系譜に名を連ねるに値する作品に昇華させたものとして捉えた。端的な言い方をするならば、「美しい」である。

 ここからは、その「美しい」と感じた理由について述べていく。「美しい」とは、個人の主観に左右させる、いわゆるアナログ的な感性の為、この先は抽象的な表現・主観的な見解が多くなっていく事をご了承お願いしたい。

 基本的に英雄譚とは、「行きて帰りし物語」である。童話「桃太郎」を例にすると分かりやすい。

 桃から生まれた桃太郎はお爺さんとお婆さんの家を後にし、鬼退治の旅に出る。その中で、犬・猿・雉を仲間に従え、鬼ヶ島に赴き鬼退治を見事成し遂げる。鬼が溜め込んでいた財宝を土産にして、桃太郎は無事にお爺さんとお婆さんが待つ故郷へ帰還するのであった。

 このストーリータイプを要約すると、「主人公が何らかの理由により故郷を出て、見知らぬ地で冒険を繰り広げた末に、故郷へ無事に帰還する」というものである。現代的なストーリー手法では、このストーリーラインに「主人公の内面的な成長・変化」も加わっている。

 あらためて、Strayのストーリーを思い返してみる。本作もまた、「行きて帰りし物語」の類似形だろう。地下世界に迷い込んだ主人公は無事に地上に戻って来られたのだから。

 しかし、Strayと桃太郎を比べた時に、そこには大きな差異がある。その一つが、「冒険によって得られた、物理的な報酬」だ。桃太郎は旅を通して仲間と鬼の財宝を手に入れたが、Strayではそういった類のものは皆無だ。主人公は身一つで地下世界へと落下し、身一つでロビーの隔壁を通って地上へと帰還した。そこに物理的に得られたものはない。そもそも、主人公がそれを欲した様子もまた皆無だ。

 二つ目は、「冒険によって得られた、精神的な成長・変化」だ。原型である童話から一歩進んで桃太郎の内面的な描写を書き加えるとするならば、そのセオリーは「仲間を得た事による充足感」や「鬼と対峙した時の恐怖や苦悩」、「見事鬼を退けた時の達成感」、「故郷に帰還した時の安堵感」などだろう。

 それとは対照的に、Strayでは主人公である猫の内面的描写はほとんど描かれていない。ほぼ唯一と言えるのが、囚われたB-12を見捨てずに救出を企てる際や、上記のコントロールセンターにおける一場面など、B-12に関するものであった。

 この二つを合わせると、「主人公の冒険譚は、『出会いと別れ』」に終始する事になる。B-12に限らず、それはスラム街やミッドタウンのロボットたちとも同様なので、おそらく本作のメインテーマの一つと推察できる。

 それが私にとって、エンディングムービーで青空を背景に振り返る主人公の姿と相まって、たまらなく「美しい」のだ。主人公が奈落のごとく地下世界への入り口に落下していった時と、再び地上に戻ってきた時まで、出会った者と手に入れた物は全てあの場所に置いてきたのだ。

 SFは往々にして、自然主義文学に通じる要素が描かれる。人間の愚かさ、絶望的な現実、変えられない運命。それらに空想科学を混ぜて語られる事が多い。

 Strayにおいても、それはほぼ同様である。ロボットたちは地下世界で人間にのそれと似た文明を築き上げていたが、種としての人類は既に滅んでいる。それは変わらず、最後の人間の精神であるB-12もまた、自ら望んだ結果とはいえあの地下世界に縛り付けられる事になった。おそらくあの世界の地球は、廃墟の隙間から植物が生い茂り、絶滅を免れた動物たちや主を失って久しいロボットたちが闊歩するだけの、人間からの視点にとっては「死の惑星」として存在し続けるだろう。

 そして、形あるものはいつかは過ぎ去る。一介の猫に過ぎない主人公はいつかは寿命を迎え、地下世界の様子は誰かに伝えられる事なく途絶えるだろう。物理的な経年劣化により、地下世界そのものとそこに暮らす者たちもいつかは免れない終焉を迎えるだろう。システムに溶け込んだB-12の精神も同様に。

 端的な言い方をするならば、「諸行無常」だ。マクロな視点から眺めるならば、何も変わっていない。Strayで語られた出来事は全て、ポストアポカリプスの後に起きた微細な連鎖反応に過ぎない。人類は救済されない。世界は変わらない。主人公とB-12が再びあのひと時のような冒険を繰り広げる事はない。

 しかし、主人公はたしかに何かを変え、その過程で何かを得た。それは主人公を通してプレイヤー自身が経験した数々の出会いや別れ、困難やその解決だ。物理的な報酬は皆無だが、たしかに主人公はB-12と出会い、共に地下世界を駆け回った。そして、地下世界を閉ざしていた天蓋を開いた。主人公はB-12との別れに対して、抜け殻となった彼の体に寄り添った。

 出会いと別れを繰り返し、主人公は再び地上に戻った。その時に一度振り返った。それを「美しい」と感じる事に、私は違和感を覚えなかった。個人的には、ジュブナイル小説を読み終えた直後のような、清々しさすらあった。

 ゲームクリア後、他プレイヤーにおけるこのエンディングに対する感想を知りたくて、ネット検索を行なった。その中で、「とある実況者がこのエンディングの他に『B-12と共に地下世界を脱出するエンドがあるのではないか』と考え、物語後半からプレイを再開して分岐を探った」というものを見つけた。

 この時になって私は、私が見たエンディングに分岐がないという事を無意識に確信していたと自覚した。その実況者の考えや行動を否定するつもりはないが、私はこのエンディングがそれほどまでに「美しい」ものであると感じていたのだ。

 かつて、かの大文豪である谷崎潤一郎は、自著の中で「実用的な文章の中にも文芸的な美しさは宿る」と述べた。私は、「美しさには実用的な面がある」と考えている。

 Strayは小規模なスタジオで制作されたゲームだ。これに現実的なゲーム制作の都合を加味して考えると、本作で描かれたストーリーが最も合理的に思える。やろうと思えばマルチエンディングにできたかもしれないが、往々にしてそれはプレイヤーに多かれ少なかれ混乱をもたらす。もしも桃太郎に「鬼に負ける」という物語上の分岐が存在した場合、「情操教育として適切なものはどれか」という議論を巻き起こす可能性がある。それは「美しさ」とは対極に位置するものだろう。

 本作は「サイバーパンク的世界をただの猫が闊歩する」というビジュアルを重視した作品だ。その上で、ストーリーにも「美しさ」を与えようと考えた時に、ある種の最大公約数としてこのエンディングが採用されたのだろう。青空を背景に、主人公である猫1匹。身も蓋もない言い方をするならば、ストーリーを総括してプレイヤーの情緒に訴えるだけの実用性がある。

 ここまで拙論を含めて語ってきたが、私はStrayが好きだ。一つだけこの作品に要望があるとするならば、もしも「2」が出るなら、それは本作とは全く別の場所で全く違うキャラクターか、あるいは本作とは完全に異なる世界での物語にしてほしい。

 「主人公とB-12の冒険の果てである『美しさ』は、このままにしておいてほしい」というのが、私個人のワガママである。



 最後までお読みくださりありがとうございました。
 今後もどうかご贔屓に。