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アスペルガー医師とナチス:発達障害の一つの起源

エディス・シェファ― 山田美明(訳) 2019年6月20日刊行 光文社

「アスペルガーの業績は、ナチスの精神医学の産物であり、彼が暮らしていた世界が生み出したものだった」。(p.10)

アスペルガー障害に名を残す人物について、私はまったく無知だった。
この本は「社会的・政治的力が医学的診断にどれほどの影響を与えるのか、それに気づき、それと闘うのがいかに難しいかを明らかにし、神経多様性を推進していくための教訓とすること」(pp.10-11)に目的を置いている。
「アスペルガーの暮らす社会では、民族共同体に参加するためには、適切な人種であり、適切な生理を持っている必要があった。だがそれ以外に、共同体意識も必要だった。その共同体と、考え方や行動が一致しなければならない。ドイツ民族の発展は、一人ひとりがそう思えるかどうかにかかっている。こうした社会的一体感を目指したからこそ、ナチスのイデオロギーにおいてはファシズムが重要だった」(pp.14-15)。民族共同体に適さないと診断されれば、「生きるに値しない命」として殺害される。
そしてだからこそ、自閉症の診断基準に社会性が挙げられるのだ。第三帝国の児童の殺害はプログラムの規模が小さく、5000人から1万程度だったとされるのだそうだ。

私はぞっとした。

発達障害の概念は新しく、だからこそ、研究がとても盛んなトピックのひとつである。身体的なマーカーの探索や、薬物療法についてなど、多方面からの研究が進むと同時に、実際に困っている人の相談も増加している。
それは、注目されるトピックだから発達障害に目が向きやすく、相談が増えているだけではないのではないか。
集団に同調させる圧力が強まっていること、同時に、十分に適応できないと感じる人が増えていることに、起因するのではないか。
集団に適さない者は切り捨てる風潮が強まれば、論調は自ずと100年前をくりかえす。
20世紀初頭のウィーンの状況が、現代日本に重なって見えてくるところが恐ろしい。

本書には、この時期のウィーンの精神医学、児童精神医学の様子が紹介され、名だたる治療者たちが次々に登場する。
すべてはここから始まった。そういう時代を知る一助にもなる。
カナーとアスペルガー、アメリカとウィーンのそれぞれで、社会的な引きこもりを示す子どもたちの状態を「自閉的」であると表現するようになり、それが子どもたちへの支援に必要な理解のためではなく、診断として疾患として成立していく経過についてもよくわかった。
単なる状態象であり、特徴の一つであったものを、社会にとって有害なものとして意味づけしたのは、ナチスの価値観に他ならなかったことも。
その時代の医学が依拠していた消極的優生学と積極的優生学についても、だ。それがどれほどのジェノサイドをもたらしたのか。

ナチスの心理療法は、「個人の精神衛生を体制の価値観に順応させることを目的に、これまでの精神分析のように過去を探求するのではなく、現在の問題に目を向けるよう患者を指導した」(p.96)が特徴だという。
教育も、医療も、子どもを、人を、国家に適した存在にすることを目的としていた。
「自分は病気なのではなく、そういう性格なのだという自信」(p.109)をつけさせるアプローチから、「人格を強制するための環境を提供」(p.109)し「子どもを変革する」ことに方向転換していた。
心理職に従事する者として、ここにもまた、自戒の念を感じずにいられない。

国家に管理を任せてはならない。
その大きな理由がここにある。

個別な人々の問題を政府が管理するようになる。
たとえば、第三帝国になる前のウィーン政府は、「子どもや家庭のあるべき姿を決める権限を徐々に高めていった。不適切な部分があると見なされれば、子どもは家族から引き離され、里親のもとへ預けられた利、児童養護施設に入れられたり、収監されたした」(p.32)という。
1939年のナチス支配下においては、3歳未満の幼児を殺すごとに、医師や看護師に手当てやボーナスが支払われていた。
幼児だけではなく、成人もまた、殺害されるようになっていく。

幼児の殺害プログラムを行っていた施設の「スタッフは、子どものいる世話から解放されたいという両親の思いに合わせ、死んでよかったのだとはっきり口にしている」(p.130)ことは、最近あった事件のあれこれを思い出さされる。
「だが児童安楽死プログラムの真の目的は、両親の生活を楽にすることではなく、望ましくない市民を第三帝国から排除することにあった」(p.130)。
殺すだけではなく、致命的な人体実験も多く行われていた。
どんな子どもたちがどんな目にあったのか。複数の事例が紹介されている第7章や第8章は胸が痛くてたまらなくなった。生き延びた人々のエピソードが紹介されているのは、第10章になる。

現代の神経発達障害についての様々な言説は、ともすれば「社会に同化できそうな子どもと同化できそうにない子どもを区別したアスペルガーの考え方と変わらない」(p.330)。

私は、このたまらなくぞっとした感覚を忘れずにいたいと思う。
途中、何度も手が止まるほど、重たい内容だったが、読んでよかった本だ。
私も人、人も人、同じ人であることを忘れずにいたい。性別や年齢が違えど、どんな疾病や障害があろうと、国籍や言語、宗教や思想が多様であれど、そこにいるのは人であることを忘れずにいたい。私は私、人は人、自他は別人である。同時に、私も人も人である。
そして、私の心は、魂は自由であることを、大事にしたいと思う。

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