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私「なんか」に何が書けるんだろう

公開編集会議から3週間。
予想以上の応援を得て、プロジェクトが具体的に私の生活にやってきた。
 ※会議に来てくださった方、ZOOM参加してくださった方、タイムシフト参加してくださった方、ドネーションを寄せてくださった方、会ったときにお声かけてくださった方、みなさん本当にありがとうございます!!!※

さて、あれ以来、私が担当する項目について、常に考えている。
私たちがつくろうとしている中高生向けの本「自分でみつける社会の使い方(仮)」の中で、私は「怒り」「恋愛」「自己肯定感」のあたりを書くつもりなのだけれど。
書きたい内容を具体的にメモでためようとするたびに、表題の、「私『なんか』に、何が書けるんだろう」と、愕然としてしまう。
人は、次世代に何かを遺そうとしてきた。たくさんの遺産が、次世代を豊かにしてきたけれど、たくさんの余計なお世話もあったと実感もある。
私が今書こうとしているこのことは、余計なお世話なんじゃないか、そんな気持ちが立ちはだかるのだ。
そもそも私は多くの集団で疎外感を感じ続けてきた変わり者の自負がある。私のつかんだものにどれだけの汎用性があるのか?
まだ誰も生きていない、未来を生きる人たちに、すごい速さで後ろに流れていく過去につかんだつもりの私の法則を、どうやったら、未来に生きる人に活かせるものとして手渡せるんだろう?
そして、実際に出会う中高大学生の多くは、自分より聡明に感じられ、こちらが感嘆してしまうことも多いのだ。


私は、普段、カウンセラーという本業では1対1の対話の中で、その人がいま必要としているもの、を感じ取りながらできる限り柔軟に個人セッションを行おうとしている。複数人を対象とする講座や講演のような場でも、その場のひとりひとりが醸す空気を感じ取りながら、言葉を選び、エピソードを変えて伝えようとしている。
本という媒体にはタイムラグがある。書き手の時間と、読み手の時間。ブログよりもっと長いタイムラグ。そしてそのタイムラグを望んで、今回「本」という形を望んだのだ。私がこの世にいなくなっても、読まれる可能性のある物質。
このタイムカプセルに、何を入れたら、今の中高生、もっと先の中高生、ぐっと戻って過去の中高生に役立ててもらえるかな。

私「なんか」が書くからこそ、の域に達したい。

学びのシェア会・出版プロジェクトメンバー 高橋ライチ




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