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取引してはいけないもの

世界では様々なものが取引されていて、何かを得るためには何かを差し出さなければいけないような誤解をしてしまう。
俺はこれをやってるんだから、お前はこれをやれ。私はこれをあげるから、あなたはこれをちょうだいね。これをやる代わりに、こうしてもいいでしょう?
幼い子ども同士もこれをやるし、大人から子ども、子どもから大人へ、大人同士、国と国なんかもこうしているさまを見ていると、「すべては取引可能」なような気がしてしまう。
そうすると、ただ受け取ることが難しくなったりする。
何か返さないといけないんじゃないか。返せない自分はダメなんじゃないか。悪なんじゃないか。差し出すものがない自分には、何も受け取る資格はないんじゃないか。必要なものを手に入れるために、取引に有利な何かを身に着けておかないといけないんじゃないか。足元を見られないように、価値があるように見せなくては。

こんな脅しに乗せられると、とても苦しい。
どんどんすり減っていく。終わりがない。
でも、ある時に私は気づいた。
世界は取引だけで成り立っているわけではなかった。
大切なものを渡してしまってはいけない。あなたの存在そのものを明け渡してはいけない。あなたらしさを、手放してはいけないのだ。

愛されるために頑張って自分らしさを削り取っていた私は、ガラスの靴に合わせて娘の足を削り取ろうとしたシンデレラの継母のようだった。一瞬をごまかしても、痛みでもたなくなるのだ。(そもそも王子は会えば「私が探していたのはこの人ではない、とわかるだろうに)
人魚姫は、声と引き換えに足を手に入れ陸に上がったけれど、真実を伝えることができないまま泡になる。
自分らしさを偽り、手放してはいけない。
好きじゃないものを好きと言い、得意でないことを引き受け、頑張って無理をして、そして愛されていないことに傷ついてきた。疲れ果てた。

そして気づいた。取引ではない世界では、何が行われているか。
持ち寄りと分かち合い。
自分らしさを持ち寄り、それを分かち合い、慈しみあっているのだった。うまくいっているカップルや、家族や、コミュニティは、持ち寄りと分かち合いでできている。自分らしいまま愛され、その人らしさを愛し、補いあったり喜びを増幅しながらともに生きることができるんだ。

この違いを、どちらかに多く居る人はそれぞれ気づいていない。それぞれの世界を当たり前と思っている。もし私が、10代のうちに、双方を行き来し、違いに気づいていたらどうだったろうかと時々考える。自分の時計は戻せないけれど、いま10代のあなたに伝えられることに希望を持って、このマガジンを綴っている。あなたがどちらに暮らす人なのかわからないけれど、もう1回最後に書いておくね。
大切なものを渡してしまってはいけない。あなたの存在そのものを明け渡してはいけない。あなたらしさを、手放してはいけないのだ。


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