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【小説】僕が猫になったわけ(17977文字)

 薄暗い街角。高架線の下。ホームレスの居住地区。

 僕は気付いたら猫だった。

 電車の通る音が反響する。耳障りだ。

 電車の音って、こんなにうるさいものだったっけ。ポツリと思った。

 そして、こうも思う。僕は何と比較して思っているんだろう。

 首を傾げながら、僕はとりあえず歩き出した。

 慣れない四足歩行が辛い。

 何故慣れてないか?それは自分で分かっているつもりだ。

 つまりは―

 …つまりは…………

 えぇっと、つまり……………?

 いくら考えても、分からなかった。

 高架線の下から明るい街中へ出た時、初めて自分が何も知らないのだと思い知った。

 いや、《知らない》のではない。

 《分からない》のだ。自分の事も。

 分かるのはただ、自分の姿を《猫》と呼ぶ事。

 それだけだった。


 コンクリートが焼ける程に熱い。

 別に歩きたくもないれど、僕は歩かなければならなかった。
 歩いていないでじっとしていたら、肉球が焼けて爛れてしまうのではないかと思った。

 真っ昼間だというのに、ここは僕よりも大きい《人間》達が沢山歩いている。人間達が我が道を行く行進の足下を、僕はするりするりとくぐりぬけて行く。生温い風を切る感覚が、何故か新鮮だった。

 足下を進む僕――《猫》がいることに気付く人は、とてもさり気なく、申し訳程度に僕の通り道を開けてくれた。

 隣の車道には、車がひっきりなしに走っている。猫から見たこの世界は、不思議で奇妙だ。

 何も分からないこの僕が何故そう思うのかは、一番の不思議だが。

 しばらく歩き続けて、やっと同じ目線の相手に巡り逢った。

 この人間があたかも支配している様な世界で、僕は僕と同じ《猫》に逢えるとは思ってなかったので、すごく驚いた。

 僕と同じといっても、僕と相手の体毛の色はまるで違う。
 あっちは茶色い三毛猫だったが、僕の方はまぎれもなく黒猫だった。

 何はともあれ、今日初めて同じ目線の仲間を見つけたので僕は安心した。何もかもが自分より大きい世界を一人であてもなく彷徨い歩くのは、はっきり言って辛かった。

 僕は三毛猫に軽やかに近付いて、ややしばらくの時間をかけたが、話し掛けた。

 「…………は、はじめまして」

 勢いで近付いたはいいが、ろくに話の糸口が見つからなかった僕がやっと口に出した挨拶は、かなりしどろもどろになる。

 三毛猫は答えない。僕の瞳をじっと見つめたまま、動かなかった。

 「…?……あ、あの~…」

 なんて奴だ。目がピッタリと合っているのに、返事一つしやがらない。

 「…もしもし?」

 尚も答えない相手に再度呼び掛けると、猫は耳を掻く仕草をした後、こう言った。

 「ニャア」

 …

 えっ、何?

 にゃ……「ニャア」って…

 普通に一声鳴かれて呆気にとられていると、相手はそっぽを向けて走っていってしまった。その姿が人込みに紛れようとした時になって、僕もようやくはっとして追いかけた。

  自分が猫だと気付いて初めて出会った《猫》の仲間。ここで逃がしたくない。

 せめてまともな話が出来たら。

 何故彼(彼女かもしれないが)は、僕を見てただ立ち尽くしてたんだろう。
 何故言葉を返してくれなかったんだろう。

 簡単な事なのに。ひと声鳴く代わりに、何か一つ言葉を返せばいいだけだ。

 なのに、あの猫は何故鳴いたんだろう。

 何人もの人の足下をくぐりぬけて、僕はようやくさっきの茶色い尻尾を見つけた。

 「待って!!」

 僕は呼んだが彼――又は彼女は止まらず、目の前に立ちはだかる人の壁の隙間をうまく見つけてするりと通って行った。

 この人並みの中で、同じ方向を向いて立ち止まっている人間達に、僕はザワリ、と悪い予感がした。

 「ダメ!ねぇ、君…戻って……!」

 キキィィィーーー………!!

 ――ドン。

 耳障りな甲高い急ブレーキ。次の瞬間、鈍い衝突音がはっきりと聞こえた。

 僕の頭上の人間達が、小さく息を飲み、囁き合う。カメラの不快なシャッター音が連続した。

 間も無く、車の流れが止まってポッポッと鳩の鳴く様な音が聞こえてきた。途端に頭上の人間達が、一斉に同じ方向へ移動を始める。

 横断歩道を渡って行く人間達の多くは、今の出来事が無かった事の様に笑い合っているが、何人かの歩行者は交差点の中心に横たわる茶色い物体を指差していた。

  僕は交差点に横たわる姿に近付いた。即死だ。相当のスピードでぶつかられたのだろう。折れた脚の骨が、皮膚を貫いて顔を出していた。顔も右半分がグチャグチャで自らの血で溺れている様に見える。亡骸の傍らに佇んだ僕の頭の中は、一瞬で真っ白になった。

 周りの音が耳に入って、直接脳まで這いずって来る。電車の音、人の笑い声、足音。何処かから聞こえるクラクション。街中のスピーカーから聞こえる宣伝。全てが不思議で、不自然だった。

 人々は目の前で起こった事故には目もくれず、自分の行くべき道を急いでいる。車道で見捨てられた小さな亡骸は、どうする事もできずにただ横たわっていた。

 どうしよう。このままではいずれ何度も車にはねられ、今より酷い状態になってしまう。僕は亡骸を道路脇に寄せようと、首周りの皮膚を咥えて引きずろうとした。
 ぐにゃりとした体、消滅してしまうのを待つだけの生ぬるい体温と、夥しい出血。その重たさと気持ち悪さに、僕はそれを放してしまった。

 こんな……こんな姿になるなんて…。

 《死体》というものに関わった 事が無い僕は、身近な者が死んでしまう恐怖をひしひしと感じていた。例え相手が、言葉さえ交わした事の無い猫でも。

 どうにか、しなくては。

 直線の道だったならまだしも、交差点のど真ん中に横たわるこの体は、動かすのに少々時間がかかりそうだ。しかし、やるしかない。

 もう一度亡骸を咥えようとした時、急に僕の頭上から影が落とされた。ふと見上げると、上品そうな身なりをした老婦人が、僕に向かってほほ笑みかけた。

 ゆっくりとしゃがみ込んだ彼女は、三毛猫の遺体をその身なりとよく似た優しさで掬い上げる様に抱き上げた。そして、血が衣服に付くのも構わず遺体を胸に抱くと、しゃがんだ時と同じ様にゆっくりと立ち上がり、僕に話し掛けた。

 「おいで」

 たった一言だった。

 背をむけて歩き出した老婦人に、僕はトコトコとついて行った。

 彼女は服が汚れるのも気にしないで、血まみれの三毛猫を胸に抱いて歩き出した。その事実だけでも、そこらへんを歩いている人間達とは、何かが違う事を感じた。 実際、僕もあの遺体の皮膚を口に含めた瞬間は、恐怖や気持ち悪さを感じたのだ。彼女の肝の座った優しさは、信じていいものだと思った。


 歩き出して程無く、僕は彼女の家に通された。
 彼女は家に入るなり、僕に「待っててね」と言い残して隣りの部屋に消えてしまった。

 扉が無いのですぐに追いかける事は出来たが、僕はお言葉に甘えて、その場で少し寛がせてもらう事にした。この家の外とは違う安心感に、すっかり魅了されていた。

 ひんやりと心地いいフローリングに丸くなり、ちょっとウトウトしかけた時に彼女が戻って来た。手には、ずっと胸に抱えていた三毛猫の亡骸の代わりに、皿に盛ったミルクを持っていた。

 彼女は僕の前にミルクを置くと、たった一言、
 「お食べ」
 と、柔らかいほほ笑みで言ってくれた。

 彼女は僕より数歩離れたロッキングチェアに座ると、手近のテーブルにあった作りかけの編み物を手にとった。

 …食べていい…んだよな?

 僕はミルクと老婦人を交互に見てから、
 「ありがとう」
 と言った。

 すると彼女は柔和な笑みをこちらに向けた。

 「あの三毛猫が気になるのね。…大丈夫。今裏庭に埋葬してきたわ。仲間を突然失って可哀相に。……さ、安心してお食べなさい」

 ……………
 
 ……あれ。
 もしかして、会話噛み合ってない?

 僕は答えた。
 「い…いや…もうすっかりこの家に安心して、三毛猫の事は忘れてたんだけどね。あの猫と僕は別に仲間って訳じゃない。あの事故の少し前に偶然出会っただけなんだ」

 全部聞き終わると老婦人は悲しげに微笑んだ。

 「あの三毛ちゃんの事、大好きだったのね…。もう安心しなさい。三毛ちゃんはちゃんと、天国に行けたわ」

 ミルクまで用意してもらっておいてなんだが、話を聞かないババアだなと少し頭に来た。僕がムッとした顔をしていると、開いている窓から突然白い猫が入って来て、僕に言った。

「人間に何を言っても無駄よ。そいつら、優しい自分に完全に酔っちゃってるんだから」

 白い猫を見て、老婦人は立ち上がって喜んだ。

 「まぁ、カトリーヌちゃん、今日も来てくれたのね!嬉しいわ!」

 白猫は僕の隣りに、つんと澄ました顔でヒラリと降り立った。
 カトリーヌと言う名らしい白猫に、老婦人が言った。

 「待っててね、今貴方の分もミルクを持って来るわ!」

 ルンルンとした足取りで老婦人は隣りの部屋に消える。どうやら、そこがキッチンらしい。白猫はキッチンを睨むと、鼻で笑った。

 「あの女、毎日私がここに顔を出すからって、私があの女の事大好きなんだと勘違いしてんのよ。…やんなっちゃう。カトリーヌなんてダッサイ名前、勝手につけてくれちゃってさ」

 「え、君、カトリーヌじゃないの?」

 僕が尋ねると、白猫はやはり鼻で笑った。

 「冗談。私は清田友美。ここには毎日お腹の空いた時に飯食いに来るだけよ。おめでたい勘違いしちゃって、あの女ったら」

 《清田友美》なんてかわいらしい名前な割に、随分悪どい事を口にするな。この子。呆気にとられながらも、僕は続けて尋ねる。

 「それじゃあ君は、清田さんの家で飼われてる猫なの?なのにここまでご飯を貰いに来るなんて…」

 僕が真面目くさった顔で言ってると、彼女は訳分かんないという顔をした。

 「はぁ!?飼われてるですって!?失礼しちゃうわね!《清田友美》はれっきとした私の名前よ、死ぬ前のね!」

 ……え?

 死ぬ前………?
 《死ぬ前の》って………

 「で、アンタはなんて名前なのよ?」

 聞いてやるわよ、という顔で彼女は言った。

 「…………分からない」

 僕がたっぷり時間をかけて言うと、彼女はいきりたった。
  「《分からない》!?ふざけんじゃないわよ、アンタ死ぬ前の自分の名前も分からないわけ!?」

 「《死ぬ前の名前》って…」

 「あっきれた!!アンタも死ぬ前は人間だったんでしょう!?」

 僕も…死ぬ前は日本人……?

 死ぬ前って……!?
 「僕…知らない。僕は今日気付いた時から猫だったんだ。名前なんて知らない」

 僕は俯いた。白猫はため息をつき、やがて老婦人が嬉しそうに運んで来たミルクを、澄した顔で飲み始めた。

 白猫――清田友美と自称しているこの猫の、言っている事がよく分からない。
 《死ぬ前の名前》とは一体どういう事なんだろう…?
 今僕は、確かに《猫》として生きている。

 死んではいない。
 一度も死んではいない、筈なんだ。

 ハッキリと言えない自分がもどかしい。「死んではいない」と、ハッキリと否定したいのに。

 友美さんは僕の横顔をチラリと見た。

 「貴方はどこからどう見ても黒猫よね?じゃあ間違ないわよ。貴方、元は人間だったの」

 黒い瞳に射抜かれるかと思った。

 「黒猫か白猫は、人間の生の成れの果て。……人間が生まれ変わった姿。それが私達よ」

 友美さんは真面目くさった顔で言った。到底信じられない。

 僕らが長々話していたからだろう。老婦人が突然僕達に話し掛けた。

 「ふふふ。二人とも、すっかり仲良しになったのねぇ。良かったわねぇ、新しい仲間と仲良くなれて」

 最後の一言は、僕に向けられたものだった。ポカンとする僕に友美さんが言った。

 「私達がどんな話してても、人間達には猫がニャアニャア言ってる様にしか聞こえないの。失礼しちゃうわよね。この女のおめでたい妄想にはほとほと呆れるわ」

 そうなのか…。だから僕とは話が噛み合わなかったんだ。

 「それに、《猫》もそうよ」

 「え?だって、僕も君も猫じゃないか」

 「私達の事じゃない。三毛猫や虎猫――私達以外の《猫》の事よ」

 僕はこの家の裏庭に埋められたという、あの三毛猫を思いだした。

 「《一度死んでいるもの》の話は、《一度死んでいるもの》しか聞けないし、分からない。アイツらは、最初から《猫》として生まれた新しい命だもの」

 あの三毛猫に話し掛けた時に返事が返ってこなかったのは、そういう事だったのか。

 その事実は、僕を突然孤独の淵に立たせたかの様だった。

 こんなに色んな生き物が集うこの街で、この世界で、僕の言葉を、気持ちを、理解してくれる存在は、どれだけいるんだろう。

 そう思うと、最初は安心を感じたこの老婦人だって急に信用が置けなくなってきた。

 「人間達は大体この女と同じ様な事言うのよね。自分で勝手に悲劇のストーリー作っちゃって。勝手に同情する自分に酔い痴れてんのよ。ばっかみたい」

 友美さんが悲しげに笑った。
 「笑っちゃうわよね。こんな嫌な所も、元は同じ人間だったからこそ分かるのよ。どれだけ人間が不思議で、嫌な生き物かって…」

 僕は、交差点に溢れる程歩いていた人々を思い出した。一匹の猫が死のうと、指をさす事しかしない彼等。それどころか、血まみれの姿を見てカメラのシャッターを切る彼等。あの非常な人の群に、元々は自分もいたのだろうか?

 猫の死体にシャッターを押したのは、もしかして自分だったのだろうか?

 そう思うと、吐き気がした。

 僕は老婦人がまた何処かへ席を立った隙に、開いていた窓から外へ出た。
 まだ食事中だった友美さんは、僕が出て行くことにさして興味は示さなかった。

 「あら、行くの?外に出ても何も良い事は無いと思うけどね。ま、どうしても行く当てが無かったらこの家に戻って来て、飼われるのね」

 それがお別れの言葉だった。

 何度か道を曲がり、僕は大きな通りを歩いていた。さっきの交差点からは少し離れた所にある、道幅が大きくはあるが、それほど人通りも多くない通りだ。人の群に踏みつぶされる心配も無いので、ありがたい事この上ない。

 歩いている途中、道の脇にある看板を見上げると、
 
 《一条通り》

 そう書かれてあった。 
 
 その時、僕の頭に激痛が走った。
 あまりの痛みに声を上げてしまったが、通行人にはきっと猫が唸っている風にしか聞こえなかっただろう。間髪入れずに、頭に映像が流れ込んで来る。

 若い男の乗る車は、相当なスピードで走っていた。そこに幼い子供が猫を追いかけて飛び出して来て…。そして――――――。

 車の前で横たわる小さな体。
 逃げてく猫。傍らに立ち尽くす男。
 その通りの脇の看板には、こう書かれていた。
 《一条通り》。

 映像が途切れた。僕は鈍く続く頭の痛みに顔を顰めながら、頭上の看板を見上げた。
 《一条通り》。

 ……ここで、誰かが事故を起こしたんだ。
 あの男が、子供を轢いたんだ。
 そして…。

 恐怖に引きつっていたあの男の顔を思い出す。僕には、何故そんな映像が見えたかより、男のその後が気になって仕方が無かった。ちゃんと警察に自首はしたのだろうか…。
 しっかりとあの少年の両親と話して、心からの謝罪をしたのだろうか。
 きっとしたのだろう。何故だか、僕はそう信じた。

 鈍い頭の痛みはまだ続いている。
 それに気を取られ、僕は自分が何処に入り込んだのかサッパリ理解していなかった。
 僕は今、建物の影の路地裏にいた。

 そして、目の前のゴミ置き場の、その上にいた黒い猫と目が合ったのだ。

 「よう。仲間だな」

 ガラの悪い声で話しかけられ、一気に体が緊張で強張った。黒猫はヒラリと地面に降り立つと、のそのそとした足取りで僕に近付いた。僕は元々気が強くないらしい。黒猫が一歩近付く度、体中の毛がザワリとした。

 黒猫は僕の目の前で立ち止まり、そして僕の顔をのぞき込んだ。

 「黒猫にしたらやけにキラキラした目ぇしてやがんな。気に食わねぇぜ」
 そうなのだろうか?僕には分からなかったが、今僕の顔をのぞき込んでいるこの黒猫の目は濁っていると思った。いくらここが路地裏だから光があまり差さないとは言っても、その目に見えている筈の物の影すら見えない。この目は何も映していないんじゃないかなんて、ふと思った。

 「オイ、なんか言ったらどうだ?」

 彼の目に見入っていると、その彼の顔が更にズズイと近付いた。

 「そんな今にもちびりそうな顔すんなって。お仲間同士、仲良くしようぜ。兄弟」

 黒猫は僕よりも体格が大きい。がっしりしているというか…でっぷりしているというか…。
 僕が向かって彼の右目には、長い一本の傷跡が走っていた。

 何も言わない僕を不審に思ったのか、彼はするりと僕の横を通り抜けながら軽く体当たりをしてくる。

 「おい、聞いてんのかよ。黒猫が、俺の話が聞こえないって訳じゃないよな?」

 僕の周囲をぐるりと一周して、「なぁ!」と脅す様な声を出しながら彼はその額を僕のそれにゴツリと合わせる。

 僕は喉から声を絞り出し、ようやく彼に応えた。
 
 「な…なん、ですか…?」

 僕の応えを不服と感じたのか、黒猫は人間らしく目の上を顰めてさっきより強く額を僕にぶつけた。

 「なんですか、だぁ…?」
 僕を睨み付ける眼力が、こいつはただものでは無いと感じさせる。もっとも、今は「ただの猫ではない」と言った方が表現としてただしいのだろうけど。

 ――黒猫か白猫は人間の生の成れの果て。
 
 なんだろう。同じ黒猫にようやく出会えたというのに、この落ち着かない気持ちは。

 いや、分かっている。

 僕の全身の黒毛が逆立つ。この猫は、危険だ。僕の鼻先から尻尾の先までにあるありとあらゆる感覚が、そう告げていた。

 「折角の仲間に『なんですか』とは!もうちょっと愛想良くしてくれたっていいじゃねぇか、つれねぇな!」
 そう大仰に笑う猫。
 笑った?
 そう見えた。

 「元人間同士仲良くしようぜ」
 やっぱりコイツも人間だったものだ。でもやっぱり僕とは違った。コイツも清田友美も、自分が元人間だと知ってる。もちろん記憶もあるのだろう。

 僕には、無い。人間としての記憶も、猫としての記憶も。自分が人間だったなんて話も、半信半疑。でも何を信じていいか分からない世界で、信じていいものなんて、僕にはそれくらいしかないんだ。

 だから……目が覚めてから初めて見つけた自分と全く同じ『仲間』を、自分に嘘をついてでも、信じようと思った。

 「ご…ごめんなさい。僕、今日気が付いた時にはこの姿で…突然過ぎたから、まだ混乱してるんだ」

 自分に人間だった記憶が無い事は伏せた。清田さんにああ言われてから、口に出すのがなんとなく、恐かった。しかし口に出さなくても、相手に不信感を抱かせるには十分だったらしい。
 「あ?何言ってんだ、お前。死んだ時に死神に説明されただろうがよ」
 「え…」

 し…死神?初耳だ。意味が分からない。

 「しにがみ…?」
 「みんな会う訳じゃねぇのか?んなこたぁねぇ、冥府への案内は全て死神がしてる筈だ。俺が会った奴が言ってたからな」
 「めいふ…?」
 「それも知らねぇのか。はは、どうやら嘘はついてないらしいな」

 黒猫はまた薄く笑う。相手は無知だと自分の中で結論つけたらしい。

 「冥府は、この世界の事だ。いや…この体、っつった方が正しいな。元は自分が属した世界にこの冥府の体で放たれる…えげつねぇ事しやがるぜ、死神もよぉ。…なぁ、お前は何をやらかしたんだよ」

 「…は?」

 「生前だ、生前!黒い毛は罪の証。お前も死ぬ前に何かやらかしたから、そんな姿になってんじゃねぇのか!?」


 死神…冥府…。

 罪の証…?

 路地裏で出会った黒猫の話は突拍子もない、荒唐無稽な話ばかりだった。

 僕はあの路地裏から――あの猫から逃げ出し、一条通りに戻って来ていた。
 さっき通った…車に轢かれる子どもの映像が見えた場所。
 その、実際に子どもが飛び出したのであろうあたりの植え込みの中に、僕はいる。
 植え込みの中は案外いい。光は差さなくて少し暗いけど、涼しくて静かで快適だ。僕は植草に包まれながら、さっきの黒猫が言った言葉に思いを馳せていた。

 ものすごく陳腐な小説の様な話。思わずそう目の上を顰めてしまうのも、僕が人間だった証拠だ。そこまでは信じれる程に、自分の感覚を信じていた。

 薄暗がりの中の一点を見つめながら、さっき黒猫から聞いた話を反芻する。

 「生前何らかの罪を犯した魂は、死神によってこの冥府の世界へ案内される。この体でかつての自分の世界を歩かせる事が、死神の決めた『罰』だそうだ」黒猫は無知な自分にそう教えてくれた。

 「死神に言われた時はそうなんてこたぁねぇと思ったんだが…実際かなりエグいぜ、この罰は。一緒につるんでた仲間も俺をわかっちゃくれねぇ…それどころか、汚ぇ猫呼ばわりして追い返される」

 黒猫は自嘲して続けた。

 「運が良くても猫好きの人間に拾われて行くが…元が人間だっただけにそれも結構キツいぜ。『人間』だったプライドはそう簡単に捨てれるもんじゃないらしい」

 飼われる側はだいぶ辛い。と黒猫はぼやいた。主人の都合に付き合わされエサの時間も量も決められ、腹が満たされなければ主人の部屋に迷い込んでくる虫を採って食わねばならない始末。それも見つかったのなら取り上げられ、主人が留守の時は部屋から出られない。狭いケージに押し込められる時だってある。
 一から十まで管理させられる生活の苦痛をここまで並びたてられる所を見ると、一度飼われた事があるんだな。と思った。今は自由奔放そうな所を見ると、逃げ出してきたのだろう。

 その頃を思い出したのか、黒猫は辛い体験を空に吐き出す様に上を見上げ、一呼吸置いた。ゆっくりと顔を戻して僕に向く。「結局、人間に見つかりにくい所でこうやって生ゴミでもしゃぶってる方がよっぽど楽だ」

 それでも、人間の出した廃棄物にしか頼れないなんて、なんて皮肉。
 結局ここは、人間の世界なのか。

 「それでも人間だった頃のプライドが疼く時だってある。…人間だった頃の記憶が無きゃあ、どんなに楽か。」

 それはそれで淋しいものだけどね。僕はその声を喉で押し殺した。代わりに出た質問は、何の気なしの場繋ぎのものだ。
「君は生前、何をやってたの?」

 どういう職業か、と聞いた時の、あの黒猫の残忍な顔は、今思い出しても身の毛がよだつ。

 「人殺し」

 ――ブォオ…ッ!

 車のエンジン音にハッとする。植え込みのあちら側の車道を、車が一台通った。排気ガスに顔が歪む。

 ふと、またあの頭痛がした。同時に頭の中にまた、映像が閃いた。

 倒れた少年の前で立ち尽くす一人の青年。その顔は恐怖で蒼白。
 恐怖以外は読み取れないその顔色で、自分の車の方へ歩き出す。
 その足取りは、極めて落ち着いている。

 彼は運転席に乗り込み車のハンドルを握り締め、そのまま車で去って行った。

 倒れていた男の子は頭から血を流している。逃げた猫が戻って来て、その少年に近付いた。
 その猫を通じて、少年の感覚が僕にも感じ取れた。

 まるでその猫は僕だったかの様。

 彼の息、感じない。

 彼の脈、感じない。

 彼の血、

 止まらない。

 「――!!」

 青ざめて、白昼夢から目が覚めた。頭痛が映像と共に消え去る。
 少年の顔は前にここで見た映像と全く一緒だった。同じ少年。

 彼は――青年は、あの少年を轢いて、そして…。

 あの青白い顔色を思い出す。彼にぴったりの言葉はこれしか無い。

 逃げた。

 逃げたのだ。

 そんな青ざめる程の焦躁に似た気持ちに支配されていると、頭の中でさっき聞いた黒猫の言葉が聞こえた。
 自分の正体を明かした後、あの猫は言った。

 「おっと。そんなにドン引くなよ、兄弟」
 「人殺し」との答えを貰った僕が少し後ずさったのを感じて、黒猫はおどける風にいったが、その声色は、決しておどけてなんかいない。
 それどころか、どすの効かせた低音は僕の心に絡み付く様だった。

 「いいねぇ、その顔。恐いものを見てる、恐怖に引きつるその顔。俺の大好物だ」
 ニタリと言った彼の言葉は、今度は僕の心に爪を立てて、てこでも放そうとしない。恐くて、足がすくんだ。
 僕は本当に気が弱いらしい。彼に言い放った言葉も、驚く程頼りなかった。

 「僕は…ぁ、なたの……兄弟なんかじゃ、な、ぃ…」

 「あぁ?」

 尻すぼみした言葉に、彼が聞き返したのも無理は無い。次ぐ言葉は、僕なりの決意をこめて言ったつもりだった。

 「僕は…僕を人殺しと一緒にしないでっ、ください…!」

 僕の言葉に黒猫が突然笑いだしたので、呆気にとられた。猫が声高に笑った。とても、奇妙な光景。

 ひとしきり笑い終えると猫は言った。それを聞いた僕は、どうしたらいいんだろう。

 「この姿になるのもちゃんと理由があってよ。…白い猫は不慮の死を遂げた人間の色。黒い猫は―」
 ―どうもしないなんて、きっと無理だ。

 「一つの例外も無く、人殺しの色だ」

 黒猫から教えて貰った事をまとめるとこうだ。
 まず、僕やあの黒猫、清田友美さんの様に、元人間だったものが猫になる事はそう珍しくは無い。殺人事件や自殺が多い昨今では、増加の傾向にあるそうだ。

 罪を犯した人間が死ぬ旅に、死神が出向いて魂をこの世界――猫の世界に案内する。この世界自体は、人間の頃の僕達の居場所そのものらしい。
その「元」居場所に存在しながら別の世界で生きる事を課せられるのが「罰」だ。

 白い猫は、不慮の死を遂げた人間に課せられる罰の形。
 死神から言わせれば、寿命を真っ当しないだけでも立派な罪だそうだ。
例え、殺されたのであっても。

 そして黒猫は、人を殺した罪の経歴を持つ魂の形。人間の間で不吉の証とされている色を身に纏って生きる事を罰とするそうだ。
 そして、僕も黒猫だ。

 ……僕は……誰かを、殺したのだろうか。

 あの猫から離れた植え込みの中に潜むようにして、考える。

 分からない。

 あの黒猫には死ぬ前の記憶があるらしい。生前の仲間が分かるくらいの、鮮明な記憶。

 僕には、無い。

 無い、けど。

 植え込みから出て、すぐそこに立っている看板を見上げる。《一条通り》

 あの、時々フラッシュする映像。人殺しの記憶か。殺された少年のものか。それともあの猫の記憶か。

 しかし今までに聞いた情報を総括すると、疑いより確信に近い思いが頭をもたげてきた。

 あれは、僕の記憶なのだ。人殺しである、僕の記憶なのだ。

「僕は…あの男の子を殺した…のか……」

 僕が生前殺人を犯した。その事実より、黒猫になってしまった所以としての話が繋がり、内心ホッとしてしまっている自分がいる。

 でもまだ、記憶が戻った訳ではない。少なくともこれは確信というより、推測にしかすぎない。もしかしたら、違うかもしれない。そんな小さな希望を胸に、僕は歩き出す事にした。ここでこうしていても始まらない。
 とにかく今は、「猫」として生きなければならない。
 僕は車通りの少ない目の前の車道を横切り、その通りに並ぶ家々の更に向こう側に行く為に歩き出した。特に目的がある訳もなく、ただ、うらうらと。

 しばらく行くと、また黒猫に出くわした。
 今度はえらくやせっぽっちの猫だった。足もすらりと長く、まるで僕とは違う生き物だったみたいだ。

 「こんにちわ」さっきの大柄な人殺し猫に感じた様な、危険なものは感じなかった。僕は積極的に声をかけてみる。
 目の前の彼(もしくは彼女)もこちらを向く。パチクリとした目が、ますますさっきの彼とは違う印象を受けさせた。

 「…こんにちわ」

 おずおずと答えた声はか細く、相手はあまり気の強くない女の子なのだと分かった。彼女は挨拶してすぐに目を逸らしてしまったが、また恐る恐るといった感じで僕を見ると、

 「貴方も…黒猫なのね…」
 
 と言った。

 どうやらこの口振りでは、黒猫とあまり出会った事は無い様だ。

 「同じ黒猫同士仲良くしましょう。私の事は…《一条》と呼んで」
 一旦口を開くと存外話せるタイプならしく、彼女は言った。

 一条。変わった名前だ。少なくとも、「清田友美」よりは変わっている。

 「うん、よろしく。一条」
 頭の中の疑問は口にしなかった。すると一条からの疑問。「…貴方は?」
 「え?」
 「…貴方の…名前は…?」

 言うべきかどうか迷った。僕には記憶が無い事を。記憶が無ければ、自分の本来の名前も分からない。さっき出会った人殺し猫も僕の事を仲間だと言ってくれてたけど、それは記憶がある彼と、記憶が無い僕とでは全然違う気がした。
 だから真の意味で仲間だとは言えないのだろう。

 僕が逡巡していると、一条が助け舟を出してくれた。驚く程、直接的な言葉で。
 「もしかして、貴方も記憶が無いの?」
 ――…え?

 「大丈夫よ。記憶なら私も無いから、私達は本当の意味で仲間だもの」

 私「も」って事は…。

 僕の疑問を読み取ったのか、彼女は柔らかい声で言ってくれた。「私も記憶が無いもの」
 「え、でも一条って…名前…」
 「あそこよ」
 「え?」

 一条が言いながら顎でしゃくった方を見る。まっすぐ向こうには、ちっちゃくなった一条通りがあった。

 「私がこの姿になって目が覚めた場所があそこなの」

 なるほど。だからその場所の名前を取って《一条》か。
 僕の場合は高架線の下だったが、それを言うのは何となく気が引けた。僕は僕のままでいいや。
 「そうなんだ」
 「そうなの。まぁ、たった今決めた名前だし…好きに呼んでくれても構わないわ」
 「そ…そうなんだ…」
 即興だったんだ…。あの言葉には全く躊躇が無かったぞ。すごいな、この人…。

 「で、貴方の事は何て呼ぼうかしら…何か希望ある?」

 「いや…特には…」

 いつの間にか会話の主導権があちらに握られている。僕は少々押され気味だ。最初の「あまり気が強くない」という第一印象を、僕は修正した。「あまり気が強くないが、一概に弱いとも言えない」。…何かちょっと微妙な所だ。
 一概に弱いとは言えないっていうか、絶対に弱くはない。だって、ちょっと今びっくりしてるし。僕。

 「そうね…何て呼ぼうかしら」
 「あ、いや。僕は別に…」
 命名される事を拒んだ訳では無いが、僕としては呼び名は別にいらない。

 「呼び名が無いと、不便じゃない?…それとも自分の名前があるの?」

 さっきちゃんと、互いに仲間であると認めたばかりじゃなかったか。何を今さら。

 「いや、ただ必要じゃないと思ってね。名前ってそんなに重要?」

 「…まぁ、そうでもないかもしれないわね。じゃあ貴方は『貴方』。そういうことで」
 一条は僕の気持ちを汲んでくれているのか、どうなのか。
 それにしても、一条も黒猫って事は…その……
 ……誰かを殺してるっ、て事…になるよな。
 こんな大人しい女の子が殺人を犯したなんて到底思えないけど。危険な感じは一向にしないし、物腰なんて一挙一動が柔らかい。
 こんな彼女も、人殺しなのか?こう思ってしまうのは、やはりさっきの彼に出会ったからだろうか。結局名前は聞かなかった、あの、自分は人殺しだと言った猫。

 生前の記憶があれば、生前の名前も自ずと分かる。清田友美さんと、名の知らぬ彼。彼らにある共通点は、記憶。でも、それなら彼と同じ黒猫の僕と一条は、何なんだ?

 「ねえ、付いて来て」
 僕が思案を巡らせていると、突然一条が言った。ハッとした僕に、彼女は続ける。「素敵な場所があるの。貴方にも教えてあげる」

 僕の答えを待たずに走りだす彼女。「あ…待って!」僕が呼び止めると彼女は振り返って「早く!」と僕を呼ぶ。
 なんというか天真爛漫な所もあり、つかみ所の無い猫だと思った。でも、とりあえず行くあての無い僕なので、彼女に付いて行く事にした。
 僕が駆け出すと、彼女は初めて嬉しそうだった。

 いくつもの交差点を抜け、賑わった街中に出る。僕の目覚めてからの道のりを、綺麗に逆走した。
 ビルとビルの隙間に入り、少し進むとそのまた右手にでてきた隙間に入る。一段と暗いその通りには野晒しの階段があり、彼女は躊躇無くそこに上った。
 一条は軽やかな猫の足取りで三段程上がって、僕が後ろを付いて来るのを待っていた。僕も恐る恐る上がって行く。

 随分長い階段を上りきると、そこには白いコンクリートの更地が広がっていた。四方をそれほど高くもない鉄柵が囲んでいる。空がとても近く感じた。まるで僕も空の一部になったみたいで、地上とは感じる風が全然違った。

 正面に見える鉄柵に夢中で駆け寄る。鉄柵越しに見下ろすと、地上ではあんなに大きかった人間がまるで豆粒みたいになった。

 「ね、素敵な場所でしょう?」

 隣りに並んだ一条が言った。
 「もう少し遅い時間になると、建物の隙間からあっちの方角に夕日が見えるの。私何だか懐かしくって、初めて夕日を見た時泣いちゃったのよ」

 「夕日?」

 「知らない?丸くて赤くて…何だかとても穏やかな、切ない気持ちになるの。きっと私も人間の頃、同じ夕日を見ていたんだなって思ったの」

 照れくさそうに言う一条。記憶には無いけれどそれを懐かしく思ってしまう。それは何てもどかしい感情なんだろう。

 「変なの」

 僕が呟くと一条は「そう?」と首を傾げた。

 「覚えてないのに。変だよ」

 「そうかしら」

 尚も彼女の声は柔らかい。彼女の言う夕日の時間までにはまだ時間がある。太陽はまだ高い位置にあった。

 「あくまでも気持ちの問題であると思うの。魂の記憶、とでも言うのかしらね」
 フフフっと彼女は笑った。一条がいきなり詩人じみた事を言い出したので、僕はちょっとびっくりする。

 「あんなに穏やかで切ない気持ちになったのはね、人間の頃の私も夕日を見て同じ事を感じたからなんだろうなって…人間の頃に感じた事だから、今も全く同じ事を感じるんだろうなって…――」

 僕はその時彼女の方を見てなかったから確かには分からなかったけど、一条はその時柔らかく笑ったのだと思った。
 だからその時、彼女の口から出てきた言葉に耳を疑ってしまった。

 「――すっごく嫌。」

 毒でも吐き散らかすのかという程に、苦々しく、憎々しく、彼女は呟いた。
 「…え?」
 耳を疑った。

 彼女の顔を見る。表情は変わらず、柔和と言っていいくらいの優しい目をしてるのに。だけどその言葉は、嫌悪感に塗れて、汚れている。

 きっと戸惑った顔をしているのだろう僕を尻目に、一条は続けた。今までの彼女が信じられない程、毒づいて。

 「私ね、夕日を見てそんな気持ちになる自分がすっごく嫌なの。理由は分からないけど、耐えられないくらい嫌。…だから、人間の頃の私も…自分が嫌いだったのね」

 彼女の視線は、まだ姿を見せない夕日を見ていた。

 「だから自殺なんてしたのよ。」

 「じ…自殺…?」
 「あら、それも知らないの?自分を殺すって事よ。」
 
 それくらい知っている。知ってるよ。

 だから、何でだ。

 「死神に教えてもらったの。私は入水自殺したんですって」

 おかしいわよね、と彼女は自分を嘲った。

 「自分が嫌いで自殺して、やっと嫌いな自分とおさらばできたと思ったら死神にこんな世界に連れてこられて…生前の記憶は無くなっても、嫌いな自分に変わりはないのよ?…拷問よね」

 日が傾いて来た。遠くの空がちょっと茜色に染まっている。

 「ま、それを自分を殺した罰だって言うんだから、考えてみれば上等手段よね。これって」

 「ほら、そろそろ日が暮れ始めてるんじゃない?」空を見上げる一条の目は、数時間前に出会った時が嘘の様に、死んでいた。でも、それでも僕は、彼女の「仲間」なんだ。

 それなら、なら、僕は……。

 「貴方も…なんでしょ?」

 「仲間」な僕は、否定できない。否定できる訳も無い。
 だって、「仲間」なんだから。

 「記憶の無い黒猫は、自殺者が行き着く存在。」
 話を聞く内に薄々感づいていたが、やはり面と向かってそれを言われるとなんというか……。
 腹に響いた。何も考えられない。

 今、僕がそれを聞いて何を感じたのか。何を思ったのか。「僕」から何も、感じない。

 「もしかして、それも知らなかった?自分がどういう存在か」

 聞かれて、俯く。

 「…死神にも会わなかったの?」

 この世界に来る時、必ず一度は死神というものに会うらしい。それはこの一条も、路地裏で会ったあの猫も言っていた。
 清田友美さんだって会ったに違いない。白猫や黒猫の事を、僕に教えてくれた。

 でも、僕は今日目が覚めた時からずっと一人だ。その他の記憶は無い。ずっと俯いてる僕に、一条の声が降って来た。

 「貴方…死神にも見放されたのね」

 その口調は、楽しそうだった。

 あの映像が、フラッシュバックする。
 
 車。 
 猫。
 子ども。
 衝突。
 恐らく、僕。

 あの後…僕はあの罪に耐え兼ねて、自殺したとすれば、それは、あまりに自分勝手なエピローグだった。
 一条は俯く僕から目を放し、赤く染まる夕日を見つめた。僕は何も言わずに踵を返し、ビルの階段を降りて行った。

 気が付くと、最初の高架線下に居た。
 もう日が差してこない暗いその空間は、この世界のどこよりも心地良かった。
 何も無い無機質な空間でぼんやりと存在するのは、心地良かった。

 少し、その場に丸くなる。
 猫の体って、こんなに疲れるんだ。もちろん、猫以外の体なんて知らないけど。でも、そんな感想を持ってしまうのも、魂が人間の感覚を覚えているからに違いない。と思った。

 人間の感覚。

 人を殺した感覚。

 自分の手を使って刺した訳でも絞め殺した訳でもないけど。あの「車」は延長線上の僕の「手」だったから。多分、気持ち悪かった筈だ。

 僕の目の前で、あの三毛猫が轢かれた時の様に。あの三毛猫を助けようとした、僕の様に。

 世界って、よくできてるなぁ。
 人を轢き殺してこの姿になった僕が、轢かれた猫を助けようとしたなんて。笑っちゃうよ。

 その時、猫が現われた。立ち止まってこっちを見ている。
 白猫だった。

 あんまりじぃっと見つめるものだから、こっちから声をかける。
 「…何?」

 答えるその声にはまだあどけなさがある。まだ子どもである事を気付かせる声だった。「こんにちは。僕は佑一。君は?」

 「…」僕が答えないでいると、白猫は一人で勝手に話を進めていた。

 「あ、そっか。黒猫の人は記憶が無くなっちゃってるんだもんね、ごめんなさい」
 今となっては僕にとっても小さなどうでもいい事に、彼は素直に頭を下げた。
 「…いや、別に…」

 僕が言うと白猫はパッと顔を明るくさせた。子どもならではの身勝手さで駆け寄って、僕の隣りに勝手に座る。
 そしてやはり子どもならではの身勝手さで、勝手に自分の事を話しだした。
 「あのね、僕、交通事故に遭って死んじゃったんだって」
 そこからダイレクトに入ってくるなんて、やはり子どもだ。

 子ども…。

 交通事故……。

 「公園で遊んでて、猫をーーあ、本当の「猫」ね。猫を追いかけて行ったら、車に轢かれて死んじゃったの」

 公園…。

 猫……。

 頭の中に蘇るのは自分が唯一持っている生前の記憶。

 僕はかなりのスピードを出して車を走らせていて…公園から猫を追いかけて車道に飛び出した少年を――。

 猫を追いかけていた、少年を。

 白い猫が不慮の事故で死んだ人間の魂なら、僕が殺した「彼」も例に漏れずそうなっているだろう、なんて。

 考えもしなかった……。


 ねぇ、神様。

 …こんな世界で神様なんているのかな。それなら実際にいるらしい死神でもいい。
 どっちでもいい。

 やめてくれよ、こんな事。

 どう考えても…出来過ぎじゃないか…。

 「…まだ…そんなに年もいってない様に見えるね。……何歳?」

 心中穏やかでない割には、口からそんな質問が滑り出た。

 「6歳」
 即答された答えに胸が締め付けられた。

 まだ幼い、人生なんて何も知らないも同然の子の未来を――。

 僕が、絶った。


 彼が隣りにいる事で、僕が「人を殺した」という実感は、重い、鉛の様な責任、罪悪感を持って、僕にのしかかってきた。目には決して見えない重量。けど、僕には見える。

 すぐそこに…今目の前に見えている。

 今すぐにここから逃げ出したい衝動と、「逃げるな」と言う正義感が、僕の中でぶつかりあった。

 「6歳なんて…まだ子どもじゃないか」

 気付くと口から滑り出た言葉は、より一層僕の心を締め付ける。

 戒める。

 「将来何になりたかったとか、あったんだろう?」

 戒める。

 「もっと、好きな人達と一緒にいたかっただろう?」

 戒める。

 「君を殺した男の事が…憎いだろう」
 
 戒める。

 彼が頷くのを、僕は望んでいた。

 新たな猫の生で、この僕を憎めばいいと。怨めばいいと。呪えばいいと。

 「憎むって…『嫌いになる』って事?」
 「…そうだよ」
 6歳なんて『憎いの意味も知らないか…。そう思いながら頷いた。
 そして首肯した彼に「僕が君を殺したんだよ」と打ち明けて、そして涙ながらに責められたかった。
 いっそ罵られれば、どんなに楽な事か。

 「僕は…僕を死なせた人の事、別に嫌いになんてなってないよ」

 幼い子の思わぬ一言に、僕は言葉も出なかった。

 「んん…そりゃあ、たっくんともてつやくんとも遊べなくなって残念だけどさ。でもお母さんなら僕のお墓の前でこう言ってると思うんだ」

 「…なんて?」

 「車に轢かれて死んじゃうなんて、車の人も悪いけど車道に飛び出したゆうくんも悪いです、って。だからじごーじとくです、って」

 …嘘だろ?

 「僕も悪かったって思ってるもん。いっつもお母さんに、車に気をつけなさいよ、って言われてたのに」

 違うよそれ。君は何も悪くない。

 車が運転できる大人の僕と、6歳の子どもとなんて、危険を察知できる能力が全然違うだろ!

 「――っ、君は悪くないよ!悪いのは車を運転していた男の方!君は何も悪くない、そいつが全部悪いんだよ!!」

 愛されて生まれ、育ったこの6歳が、十分に成長して独り立ちした男と対等に悪い事をしたなんて…間違ってるんだ!
 僕の反論を受けて彼は目をぱちくりさせながら僕に聞いた。
 「車を運転するのって、悪い事?」
 「――え…?」

 「僕のお父さんもお母さんも車の運転、したよ?それは、悪い事?」

 「ぃや、でも…」

 「車は、悪い事じゃないよね。学校で『今は車社会の時代だ』って習ったもん。だから車を運転する人も、歩く人も、お互いにルールを守って気をつけましょう、って」

 違う、とは言えなかった。

 「だから、気をつけなかった僕が、悪いんだよ」

 ――違う。

 そうじゃない。確かに、車は悪い事じゃないけど。でも。
 君「が」悪いなんて事――。


 「――…違うんだよ。ルールを守らなかった、僕が悪いんだ…」

 「…え?」

 呟いてハッとした。唐突な告白に、祐一君は驚いていた。
 無理も無い。同じ「猫」として――仲間として声をかけた黒猫が…

 「…お兄さん…?」

 自分を殺した男だったんだから。

 「――祐一君、君を殺したのは僕だよ…。この、僕なんだよ…」

 「――え…?」

 「ごめんね…。もっと生きたかっただろうに…もっと、お父さんやお母さんと一緒にいたかっただろうに…」

 ごめんね…ごめんね…。

 何度も謝りながら、僕は祐一君に、本当の猫がそうする様に体をすり寄せた。
 この体から、後悔と懺悔の念が伝わればいい。そう思った。
 もちろん許して貰おうなんて、この体を覆うまっ黒い体毛程も思っちゃいない。
 
 だけど。


 「…寂しかったんだ。本当は」

 そう、生前からの記憶が残る白猫は言った。
 「もう、お母さんに会えないから。お母さんに抱き締めてもらえないから。お父さんに頭を撫でてもらえる事も無いから」
 「――…だから、」

 彼はまだ、母の愛情を必要とする歳だ。
 その望みも、僕が奪ったのに。

 「もう少しの間、このままでいてくれる…?」

 何でそんな事を僕に言うんだ。


 ああ、死神よ。

 こんなの残酷すぎる。

 「猫の世界は本当は不安で、恐い事ばっかりで…夜はいっつも泣いてたんだ」


 ああ、そうか。


 「こうやってると、お父さんに抱き締められた時みたいに、何の不安も無くなるんだ」

 これが僕にとっての、「罰」なのか。

神からの投げ銭受け付けてます。主に私の治療費や本を買うお金、あと納豆を買うお金に変わります。