サイレント・レイン

氷雨の朝、私は新宿にいた。

大好きな詩友に手を振り、そこからの予定も決まらないまま、もう一泊分の荷物の入った鞄をコロコロと曳きながら、ホテルを後にした。

悴む手、右手は鞄、左手は傘で、息を吐きかけることも出来ず、とりあえず紀伊国屋書店まで行こうと歩き出した。

大通りに出ると、そこはいきなり異界だった。東京マラソンの為に、交通規制の布かれた大都会は車一台なかった。雨のアスファルトがすべての音を吸い込んで、ひたひたと走るランナーも逃れようなく濡れて、安全と安寧を願うスタッフも冷え切ったまま、一様に無言だった。

サイレント・レイン

東京新宿。そこは、私の永い幻想をひたすら紡いできた街だった。

光りの帯と影の帯を渡り続ける先にそこはいつもあった。

しかし、不意に現れた異界のような新宿は、初めて私に

「此処は、その、果て」と告げていた。

交通規制でいつまでも横断歩道が渡れない。スクランブル交差点も、何一つ交わることなく、ただ渡ることのできないあちら側は、もどかしく遠かった。

この遥かさ、遠さ、辿り着けなさ、潰えた心許なさ、

そして慣れ親しんだ懐かしさよ。

でも、もうそこに、私の懐かしさを置くことは出来ないのだと、気づいた。

映画のような作られた静けさの中で、私の紡いできた傷みの(ほんとう)はありありと確かで、いつまでも渡れないあちら側には届かないこと。懐かしさは、私の心癖の中にしかないこと。

紀伊国屋書店に着いて、あと一泊分の荷物の重さを思う。

ぼんやりと詩歌のコーナーを巡った後スマホを取り出す。

「来たらいいじゃない、いつだって来たらいいじゃない。」と言ってくれるはずの人に電話をする。

「ああ、おいで、暗くならないうちに着けるといいね。明日は胃カメラでお母さんはご馳走食べられないけど、真奈美が来るなら、何か作ろうねぇ、温泉にも行こうねぇ、待ってるよ。」

という声を聴く。

私を待つ場所へと向かう。当たり前のように、温かく待たれて在る場所へ。

氷雨の上がった新宿を後にして。

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