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【長編】カノジョは今日も喋らない。-vol.0-

 ――好きです。付き合ってください。

 ふわりと甘酸っぱい香りが、鼻腔をくすぐらせる手紙には、丁寧にその言葉だけが書かれていた。至極短い文字の羅列は、しっかりと僕の鼓動を高鳴らせた。
 頬を赤らめて、少し俯く彼女はやっぱり可愛らしくて、耳が熱くなっているのをしっかりと感じながら、僕は不格好に笑って、彼女の書いた言葉に首を縦に振った。
 夕焼けの赤が、紅く火照る僕らを色濃く染めたあの日から今日まで、僕は、まだカノジョの声を聞いていない。



 随分と眠い。どうしてこの人は、こんなにも眠い講義ができるのか。後ろから何人の寝息が聞こえていると思っているんだ。
 半分ほど欠けた視界の中で、机上に出していたスマホがメッセージの着信を知らせる。
〈この後、用事がなかったら、いつもの所で甘いもの食べよ?〉
 半分も欠けていた視界が一気に広がった。

 講義の終わりを告げるチャイムと同時に、僕はノートと筆箱をリュックに突っ込んで、のろのろと歩く人たちをするりと抜け行き、教室を後にする。学部棟前のパラソルに目をやると、ぷっくりと丸っこいグレンチェック柄のキャスケットを深めに被った華奢な女性が、文庫本の中に浸っていた。
 僕は、パラソルの方へと進み、彼女の真正面に腰掛ける。

「ごめん。少し待たせちゃった」

 彼女は、本から顔を上げ、首を横に振った。少しはにかみながら、金縁眼鏡を修正するその姿が可愛らしい。

「行こっか」

 いつもの場所は、大学の正門を出て右に真っ直ぐ行ったところにある。ぼうっとしていると、つい通り過ぎてしまいそうになるその場所は、少し狭い石造りの階段を上がって扉を開ければ、珈琲の香りがさっきまでの疲れを包み込んでくれる。
 入って直ぐに出迎えてくれる少しレトロなショーケースには、可愛らしいケーキがずらりと並んでいた。
 彼女は目を輝かせながら、少しケーキを物色した後、いつもの席に腰を下ろした。僕たちが座ったのを見計らって、マスターが注文を聞きに来る。「いつものでいい?」と僕がキャスケットを取る彼女に尋ねると、嬉しそうに首を縦に振る。

「ココア一つとカフェオレを一つ。あと、今日のおすすめのケーキを二つ」

 マスターはさらさらとメモにペンを滑らせ、少し、口許に笑みを浮かべながら軽く会釈をして踵を返した。
 彼女はトートバックからリングノートと万年筆を取り出す。無地の紙に少し青みがかったインクを滲ませる。

〈急に言っちゃってごめんね〉

 彼女は少し顔を赤らめながら、僕に文字を見せる。そして、直ぐに引っ込ませ、また、紙にインクを滲ませる。

〈今日、会いたくて〉

 眼鏡を修正するふりをして、火照った顔を少しでも隠そうとする彼女の姿にこちらまで顔が火照る。逸らした視線を彼女に戻すと違和感を覚えた。

「あ、前髪」

 さっき会ったときは、キャスケットを被っていて、気づかなかったが、前髪が随分と短くなっている。目に掛かりそうなほど長かったのに、今は眉よりも少し上だ。

「随分、思い切ったね」

 彼女はこくりと頷く。

「だから、帽子、深めに被ってたの?」

 彼女はこくりと頷く。

「似合ってる」

 彼女は俯きながら、万年筆をノートの上で滑らせる。

〈安心した〉

 さっきよりも、文字が柔らかい。

「帽子取るまで、少し緊張してた?」

 彼女は少し間を置いてから、こくりと頷いた。

 マスターが、注文したメニューを机に並べる。ホイップクリームがたっぷり乗ったココアとストロベリーチョコレートでコーティングされたドーム型の可愛いケーキに幼い少女と何ら変わらない目をする彼女に、僕は思わず口許を緩ませてしまう。

 今日も彼女は口を開かない。
 だが、今日も彼女は分かりやすい。

To the next story...

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります:)