どうでもいいことしか考えていない〜脳がシラフじゃいられない〜

 電気ウナギは本当に電気を発するのだろうか。誰かが電気ウナギに触れたとして、触ったときにしびれを訴えたのであれば、痺れをもつ毒であった可能性はないのか。そもそも、電気〇〇とつく動物の有名格が、ウナギとナマズの水生動物のみなのもいかがなものなのだろうか。毒の部類であれば地上にも同様の毒をもつ生き物はいるはずだし、よしんば電気を起こす器官があったとして、何も水生動物の特権というわけではなかろう。そもそもだ、そもそもなんで電気ウナギは電気などと呼ばれるに至り……

 帰りの電車、しかも一駅の間での一幕である。もちろん口に出したりはしない。が、こんなことをずーっと考えている。調べればわかることではあるが、調べないからこそグダグダと考えられて面白い。そんでもって正解は調べない。知見と妄想は相容れないものだからである。
 そもそもなんでこんなことを日がな一日考えているかというと、脳がシラフになると駅のホームの外側へ走り幅跳びしかねないからである。できるだけ人生から目をそらしていたい。一応こんなことを考えながらでもおちんぎんを得るに値する働きはしているので許してほしい。

 ……許す・許さないといえば、略語というか用語というかそういう圧縮言語を昨今目にしてはちょっとキレていたりする。意味はわかる、用法もあってる、時と場合も適している、ただその言葉を使われるのが腹が立つ。なーにがリスケじゃねじくり転がすぞポンケツがよぉ!
 略語も略語である。なんというか……「ああ、元の文のここで区切ったのね。」というのがわかるのはまだいい。それを動詞化や形容詞化するのもギリ許そう。ただ混ぜこぜ刻んで組み合わすそこのお前は正座説教である。そうだ、そこに座れ。

 言葉に対してはうるさいほうではない。なんならしれっと造語を混ぜこむ程度には言葉に対する敬意がないほうである。しかしながら細かいところが気になる性分のせいか、こう……眉がピクつくというかその言葉の正しい形が気になってしまう。
 略語一つ取ったとて、『アキバ』なんて略されて久しいが、正式名称は『秋葉原(あきはばら)』なんだから正しくは『アキハ』だろう。とか、なんなら『あきばはら』が正式なのであって今日日呼ばれる読み方のほうに問題があるのでは?と思ったりとか。
 まぁなんにせよ、人生においてどうでもいい話であることは確かである。

 こう、無駄なことを考え終わるとどことなく心がスッとする気分になる。嫌なことは長い間考えるし、答えもすぐ出ず延々と悩んだりするからだろうか、試し書きするみたいにとめどなく考え続けて飽きたら投げちゃっていいこの無駄思考の場が何より楽しく、気持ちがいい。
 まぁ、惜しむらくは楽しいのが私だけという点である。端から見たら思考のプロセスも気の散るタイミングもわからないから、延々と駄文を吐くFAXにしか見えないだろうからだ。

 でもいいのだ。時として、無駄なことも出力していかないと脳のインクが詰まってしまう。