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紺碧に咲くデルフィニウム 2(先読版)

前話



 ラルサムニスの海は、春が短い。冬の荒波が収まったかと思えば、程なくして嵐の多い夏が来る。
 コルオラの港は入り組んだ湾の奥にある。そのため、冬の荒波も夏の嵐も届きづらく、外海に比べれば荒れにくい。一生を海で暮らす《海の民》だけでなく、海を庭とする熟練のコルオラの民たちにとっても、海に出ることを阻むものではなかった。
 とはいえ、春に比べれば荒れることは確かである。幼い皇女を間違っても危険に晒すことはできないため、デルフィニアが海に出るのは気候の穏やかな季節のみと決められていた。

 その年も、短い春の終わる頃、夏の嵐が湾に近づくよりも前に、皇女は《海の民》の船から陸の皇宮に戻ってきた。甲板を踏みしめ続けて火照った足に、石造りの回廊がひんやりと心地よい。子供から少女へと成長し、少したくましくなった皇女は、華麗な細工が刻まれた柱の間を駆け抜け、ますます豊かになった蒼い髪をなびかせる。

「ひ、姫様ぁ!」
「お待ちください、デルフィニア様!」
「遅いわよ、お前たち」

 追いかけて息を切らす侍女たちを振り向きもせず、デルフィニアは軽やかに駆けた。海の上とはまた違ったあたたかい風が、皇女の背中を押すように吹き抜ける。
 デルフィニアは、海が好きだった。そして、陸も好きだった。
 彼女は《海の民》でありながら、皇女でもある。ずっと海で暮らしているわけではなく、皇宮にも帰る場所がある。
 本来なら、ふたつの居場所を往き来することは、《海の民》としても皇族としても有り得ないことであると、デルフィニアも知っていた。けれど彼女にとってそれは矛盾ではなく、むしろ自分が《海の民》としても皇族としても特別で、唯一無二であると感じていた。
 回廊から庭園に下りたところで、デルフィニアは一時いっときだけ足を止めた。花壇から溢れる緑と咲き乱れる花々の中を、きょろきょろ見回しながらゆっくりと歩く。
 と、庭園にいた先客の存在に気付き、足を止めた。

「何をしているの、グラナトゥム」

 グラナトゥムは、デルフィニアと最も年の近い異母弟おとうとである。
 皇宮の奥に位置する芽吹宮ゲルミナティオは、皇帝の家族の住まう宮。皇妃たち、そして皇子や皇女たちが暮らしている。同じ父を持つ異母兄弟とはいえ、後継をめぐる順位がつき、競い合う間柄。当然、仲の良い者たちばかりではない。皇妃たちやその実家の思惑も加われば尚更である。いらぬ衝突や揉め事を避けるため、それぞれの住まいには充分な距離と広さが設けられている。その他にも色々と決まりごとを作り、意図的に会おうとしたり訪ねたりしなければ、顔を合わせなくても済むようにしていた。
 とはいえ、庭園や回廊は誰の住まいにも属さない共有部分である。個人の住まいを訪ねるのは別として、芽吹宮ゲルミナティオの内であれば基本的に皇妃や皇子、皇女たちの行動に制限はない。このような場所で、意図せず顔を合わせることも充分に起こり得た。

「庭園に来るのに、貴女の許しを得る必要が?」

 声を掛けた彼女を一瞥いちべつし、わざとらしく慇懃いんぎんにグラナトゥムは答えた。そのひねくれた物言いにかっと頭に血が上り、デルフィニアはつい語調を荒らげた。

「姉とお呼びなさい、無礼者」
「同じ年に生まれた同士、そのような決まりごとはない」
「決まりはなくとも、姉は姉でしょう!」

 初夏に生まれたデルフィニアと晩秋生まれのグラナトゥム、その差はたった半年に満たない。わずかとはいえ姉としての自負があるデルフィニアにとって、頑としてそう呼ぼうとしないグラナトゥムは、腹立たしい存在だった。

「わたしは先に生まれた姉、しかも《蒼の皇女》よ。あんたが弟で《色無し》なら、わたしを敬うのが当然なのではなくて?」
「デルフィニア様。おやめなさいませ、お言葉が過ぎますよ」
「臣や民にも多い《色無し》を蔑む者など、敬う気になるものか」
「皇子殿下、お抑え下さい」

 それぞれの侍女や付人が窘めても、睨み合う異母姉弟きょうだいは聞く耳を持とうとしない。

「ぼくは貴女の弟じゃない。《色無し》を見下す貴女など、ぼくの姉とは認めない。ぼくの兄弟は、ディアントゥス兄上だけです」
「まぁ呆れた。同じお父様の子であること、自分が皇子であることすら否定するというの? 《色無し》同士、仲が良くて結構だわ」
「兄上まで馬鹿にするのか! ……同母兄あにを慕って何が悪い。同母兄弟ほんとうのきょうだいがいない貴女には分からないだろう」
「何てことを言うの!」

 激昂して叫んだその瞬間、皇女の周りの空気がひやりと冷えた。胸元の守り石が強い青い光を帯び、怒りに満ちた瞳がらんと燃える。彼女のしようとしていることを悟った侍女が、咄嗟にデルフィニアの腕を掴んだ。

「デルフィニア様、いけません!」

 守り石の光は、魔力の輝き。その身に宿る力は大きく、強く──それを完全に制御するには、皇女はまだ幼かった。
 と。

「まあ、デルフィニア。お帰りなさい」

 突如のんびりとした声が掛かり、デルフィニアははっと我に返り顔を上げた。声の主は庭園に面する回廊に佇み、にこにこと微笑んでいる。それまでの緊迫していた空気を、まるで意に介さないかのようなその笑みに、デルフィニアもグラナトゥムも張りつめていた気が抜けてしまった。

「……白妃ヴェントゥス様」
「デルフィニア、グラナトゥム、よければお茶を一緒にいかが? 今日はね、とても美味しいおやつがあるのよ」

 白妃ヴェントゥスは、皇帝クエルクスの妃の一人である。穏やかでふんわりとした女性で、自分の子供ではない皇子や皇女たちにも心から分け隔てなく接する奇特な人だ。デルフィニアは素直に彼女を好いているが、心根が読めないと苦手にしている者も少なくない。

「ぼくは……遠慮します」
「あら、そう? 残念だわ。また今度、お話しして頂戴ね」
「……失礼します」

 グラナトゥムがそそくさと立ち去ると、心から残念そうな顔をする。そこには他の妃の子への悪意はおろか、懐柔かいじゅうし抱き込むことを狙っているような思惑も見られない。ただ、己の息子と同じように接し、仲良くしたいだけのように見えた。

「デルフィニアだけでもいらっしゃい。それとも、海から戻ったばかりでお忙しいかしら」
「いいえ、白のおかあさま。ぜひご一緒させてちょうだい」

 デルフィニアは笑顔で白妃ヴェントゥスに駆け寄り、並んで庭園を歩き出した。
 白妃ヴェントゥスの美しい長い髪は、瞳と同じ淡い亜麻色。肌も真珠貝のように白く、陽に焼けたデルフィニアや実母・青妃アクアとは全く違っている。白妃ヴェントゥスと過ごす時は、実母との時間とは全く違う、流れる空気さえ違うようにデルフィニアには思えた。

「デルフィニア、さっきはお庭で何をしていたの?」
「髪に飾るお花を探していたの。せっかく陸に戻ったのだし、お父様へのご挨拶の前にと思って。でも、グラナトゥムが邪魔した所為で、探せなかったわ」
「そう。では、あとで一緒に探しましょうか」
「ええ、喜んで! ね、今日、ラウルスお兄様は? お出かけ?」

 白妃ヴェントゥスは、デルフィニアの一番好きな異母兄あにラウルスの生母である。
 皇太子の母親として、彼女の芽吹宮ゲルミナティオでの立場は確固たるものであり、皇妃たちの中で最も力のある存在と言えた。しかし、白妃ヴェントゥスはその立場と力を笠に着ることなど全くない。いつも穏やかで、デルフィニアを始めとする他の妃の子どもたちにも優しく、皇妃たち同士の関係も良好に保っている。それは単に彼女の人となりに依るものではなく、そうあろうと努める日々の行いがあってのものであることに、デルフィニアも幼心に感づいていた。
 白妃ヴェントゥスはいつもの優しい微笑みでデルフィニアの問いかけに答える。

「ラウルスは皇宮にいるわ。でも今日は軍議や執務で忙しくて、一日こちらへは来られないそうなの」
「……そう」

 見るからにしょんぼりと肩を落としたデルフィニアに、白妃ヴェントゥスは微笑んでその頭を撫でる。

「皇帝陛下にご挨拶に行くのでしょう、きっとその時に会えるわ。ねえデルフィニア、果物はお好き?」
「ええ、大好き!」

 デルフィニアが青い瞳をきらきらさせてはしゃぐのを、白妃ヴェントゥスは嬉しそうに見つめる。彼女にとっても、素直に自分を慕い、懐いてくれるデルフィニアが可愛くて仕方がないのだ。
 白妃ヴェントゥスのお茶会で和やかな一時ひとときを堪能してから、デルフィニアは丁寧にそこを辞した。白妃ヴェントゥスに手ずから髪を整えてもらって、彼女に選んでもらった花を髪に飾り、デルフィニアはこの上ない上機嫌で回廊を駆ける。
 皇宮の中央に位置する広間には、臣たちと皇子たち、そして玉座には父・クエルクス帝の姿もあった。

「お父様! お兄様!」
「おや、我が愛娘のお帰りだ」

 眉間に皺を寄せていたクエルクス帝は、娘の姿を認めた途端に顔を綻ばせた。おいでおいでと手招きし、幼い娘を膝へと抱え上げる。

「ただいま帰りました、お父様」
「お帰り、デルフィニア。海はどうだった? 春の風はもう強かろう」
「ええ、とても速かったわ!」

 にこにこと言葉を交わす父娘のなごやかな様子に、広間の空気も少し緩む。ほっとした様子で肩の力を抜く者たちが多いが、それに対して眉をしかめる者たちもいる。声を上げたのは、長兄ディアントゥスだった。

「父上、今は軍議の場です。デルフィニア、挨拶は手短に」
「ディアントゥス、よい。少々議論も詰まっておったところだ。皆も休息せよ」

 クエルクスはひらひらと手を振り、娘と息子たちを伴って席を外した。庭園と海の見える回廊でデルフィニアを下ろし、その頭をぽんと撫でた。

「また大きくなったな、デルフィニア。海から戻るたびに背が伸びているようだ。今年いくつになる?」
「九つよ、お父様。あと一年したら小型船ボートを貰って、一人前の《海の民》になるわ」
「それは頼もしい」

 デルフィニアの、父譲りの蒼い髪はますます豊かに長くなり、瞳は快活に煌めいている。船で海を走る手腕も、風と話し空を読むすべも、誰にも負けないほどに成長していた。

「お前はラウルスを支える立場であり、皇位にも近い。ゆくゆくはこのような軍議にも加わり、国の動きやまつりごとを知ってゆかねばならん。勉学にも励みなさい」
「……努力するわ」

 少し気まずそうに目を逸らした娘に、父は笑いかけた。デルフィニアが机上の勉学よりも、海で体を動かし、人と触れ合い、精霊たちと通じ合う学びの方が得意であることをよく分かっていたからだ。
 彼女も決して勉学が不得手なわけではない。幼い頃から兄姉たちと同じ一流の教師に学び、本を読み解き、どの学問でも優秀であるとよく褒められている。ただ、長くじっとひとつの思考を深めるのは、あまり性に合わないのだろう。

「気負わず励めばよい。お前ひとりで全てが出来なくとも、お前の得意と、兄弟たちの得意とを合わせれば、支えには充分頼もしい。なあラウルス」
「ええ、父上。デルフィニアも、ディアントゥス兄上も、他の弟妹たちも皆頼りになります」

 ラウルスがにこやかに頷き、デルフィニアはぱっと表情を輝かせた。大好きな異母兄あにに、そして大好きな父に褒められるのが何よりも嬉しかった。

「ラウルスお兄様が、誰よりも一番頼りになるのはフィニイだって言ってくれるようになってみせるわ」
「おお、立派な心がけだ」

 皇帝クエルクスは目を細めて娘の頭を撫でる。
 子どもたちの中でただ一人、己の蒼い髪と瞳を両方とも受け継いだデルフィニアを、皇帝は殊更ことさらにかわいがっていた。その溺愛はまさに目に入れても痛くないほどで、同じく蒼い瞳を持つ自身の後継者・ラウルスへの愛すら凌ぐほどである。

「お前がこの父を、そして兄を、支えてくれればこれ以上に心強いことはない。お前と共に帝国を支える夫も、しっかりと良き者を選ばねばな」
「父上、それはまだ」

 ラウルスは咄嗟に口を挟もうとしたが、僅かに遅かった。デルフィニアはきょとんとして父を見上げ、真っ直ぐに言葉を返す。

「あらお父様、フィニイとラウルスお兄様と、ふたりで帝国を担うのでしょう? フィニイはお兄様とケッコンするのよ、他の人などいらないわ」
「はは、そうか。可愛い異母妹いもうとにここまで好かれて、ラウルスは幸せ者だな」

 愛娘の心のうちを知ってか知らずか、クエルクスは笑ってまた頭を撫でた。

「デルフィニア。結婚というものは、元は家族でないものが家族になるためのものだ。お前とラウルスは異母兄妹きょうだいであり家族なのだから、結婚は必要ない」

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