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「この世の好きなもの全てを自分のクローゼットへ収めなくてもいい」 〜自他境界と所有欲〜

最近考えていることの書き散らし。

自他境界

ファッションとメイクについて、「自分が実行する必要性を感じられない」と先日のnote↑で書いた。
よく旅行なども、「自分が行く必要ない」と感じる。そこに存在する感覚器が自分の有するものである必要とは? カメラじゃいかんのか? という感情が。
……単に、発達障害あるあるの「自他の境界が曖昧」でしかないのでは?
"私には70億の悲しみを背負えるようなキャパがないのだ" の逆。他人の感情が雪崩込んでくるならば、自分の感覚だってどこまでも拡がるのだ。

誰にでもいえる自他境界のお話 | ADHD-COACH
書きながら調べたらまんまやんけ。はいはい車輪の再発明。

昔書いたこのnoteも、自他境界の曖昧さはミラーニューロンの過剰反応に起因する、と整理できる。

それでも、「自分で気づき理解すること」へは強い納得と執着を覚える。そこは他人ではダメだ。……いや、それだと人類の共有財産としての科学への思いとか、社会的分業への考えと競合するな。やはりどこかに線引きがあるのか。
読むだけでなく書きたい、という感覚がある。訊くだけでなく訪れたい、はない。行動の主体が精神か肉体か、か? つまりは出不精なだけか?

所有欲

同じく、ファッションとメイクについて、「所有や管理が面倒」と書いた。
私には収集癖がある。幼い頃は折り紙、ぬいぐるみ、食玩、書籍、道端のがらくた。大きくなってからはゲーム内のフレーバーアイテム、統計情報、フライヤーやステッカーのデザイン、リブログやリツイートやピン。

お気づきだろうか、対象が物理から情報へ移ろったことに。
いつの頃か忘れてしまったが、ある種のミニマリズムを得たのだ。物欲と所有欲は別、という。得る喜びと有する喜びは別物なのだ。

ひとつが、「それがこの世に存在している(いた)だけで満足」。言うなれば、「この世の好きなもの全てを自分のクローゼットへ収めなくてもいい」。
これは、自分という枠をこの世にまで拡げることで、存在=所有と見做しているんじゃなかろうか。

自分が収集家として有したとて、後世にまで残せるかというとそうではない。墓まで持っていけないという諦めもある。
持ちたいのは物ではなく権利、というのもある。欲しいのはドリルじゃなく穴なんだ。ドリルが存在することによって生じる穴という結果だけを享受したい。洗濯機ではなく清潔な服。書籍ではなく読書体験。物が欲しい場合も、結局は物理的データに即時アクセスする権利。
ただし、槙島聖護の「紙の本を買いなよ」はとても分かる。紙の本を読むという読書体験は格別。

もうひとつが、「何かを始めるときは終わるときのことを考える」。関係を始めるときは辞めるときのことを。物を買うときは捨てるときのことを。収集するときは処分するときのことを。
例えばプラスチックの収納ボックス。捨てるのが大変過ぎるので、厚紙を折った箱で代用している。データは簡単に消えるし、フライヤーはそのまま資源ごみに、ステッカーは可燃ごみに出せる。

これに則ると、メイクを始めるハードルがめちゃくちゃ高くなってしまうのだ。似合うメイクを見つけるまでの旅の途中、数多生じる「試して合わないと判明したコスメ」をどう手放すか考えると気が重い。

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