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見えるもの、見るべきもの ~「異世界薬局」考証裏話(2)外傷のおはなし~

WEB版、書籍版をお読みの方は気付かれたと思いますが、「異世界薬局」コミック版にはちょっとずつ修正が加わっています。
特に第14話はかなり変更があり、作画の高野さんがずいぶん苦労しておられました。
ご覧になった方は是非、原作と比較して見て下さい。

さて問題の第14話。
怪我人は馬から振り落とされたサロモンさん(年齢不詳男性)。
いきなりですが、症例を整理してみましょう。

症例は推定30代男性、戦闘中に落馬し左下腿に開放骨折をきたしたもの。
脛骨骨幹部近位および腓骨骨幹部近位骨折疑い。
軽度興奮状態。
既往歴:不明
予防接種歴:なし
アレルギー:不明
最終経口摂取時刻:不明

原作には「左足の脛の骨が皮膚を貫通しているのが見えた」とありますから、創(傷口のことを創と呼びます。以下、これで統一します)がかなり大きいタイプの開放骨折(注:コミックスとの整合性を重視し、ここではこの語を用います)ですね。
なお原作には動脈性出血の有無が触れられていませんので、これはあってもなくても良く、作画とストーリーの都合で決めてしまうことができそうです。
また同様に、原作には他の外傷があるかどうかは触れられていません。
この時点でサロモンさん(※登場人物の名前)は正体不明のわからず屋ですから当然、既往歴、アレルギーは不明で構わないでしょう。
そしてこの世界に予防接種という考え方はありませんから、予防接種歴も当然ありません。
最後に喫食した時間も、不明です。

不明点を含め、ちょっと考えてみるとしましょうか。
決定にあたっては、「ご都合主義」を大量導入します。考証はストーリーを描きやすくするのが目的だからです。

他外傷があるかどうか、ざっくりと決定します。
──無いことにしてしまいましょう。
出血が動脈性か静脈性か 
──ここはこのあとの考察で決定していきます。
感覚消失の有無 
──どこにも記載がありませんが、神経損傷していた場合は主人公にもどうにもならない可能性が出てきてしまいますので、損傷なく感覚は保たれているものとしてしまいます。
最終経口摂取時刻 
──さすがに朝食は摂取しているでしょう。しかし戦闘直前にしっかり腹に詰められてしまうと、いわゆるフルストマック(胃にたくさん内容物が入っている)となり、生存率下がります。大変迷惑です。戦闘部隊の経験上、戦闘時の腹部外傷で助からない確率が上がると知っていることにしても良さそうです。

これらを踏まえて、ちょっと書き直しましょう。

症例は推定30代男性、戦闘中に落馬し左下腿に開放骨折をきたしたもの。
脛骨骨幹部近位および腓骨骨幹部近位骨折疑い。
他に明らかな外傷なく軽度興奮状態。
上下肢の運動は可能。創からの出血を認める。
既往歴:不明
予防接種歴:なし
アレルギー:不明
最終経口摂取時刻:不明

遠くから見てますので、当初はこんなものです。

さて、ここまでご都合主義で固めたあと(あるいは後で決める項目を決定したあと)、ストーリーに戻りましょう。

傷病者を評価する(1)

当初、主人公は離れた位置から負傷者を見ています。この時点で、主人公は負傷者の状態を把握できていません。

……そう。
実はいくら骨折部位が特定できても、主人公は「状態を把握していない」のです。

ここでは主人公の能力を横において、手順を追って見ていく場合を想定し、どのような項目をチェックしていくか、確認してみましょう。
状況を単純化すると、これは「野外で、怪我人に初めて接触する」状況になります。
ここで必要なのは以下の5項目です。

1. 状況評価
2. 患者の初期評価
3. 全身観察または重点観察
4. 緊急処置と搬送の決定
5. 医師の指示をあおぐ(リアルワールドの場合)

いわゆるプライマリー・サーベイといわれる初期確認ですね。
ここで重要なのは、いきなり患者に取り付いて傷の評価をはじめないことです。
屋外(リアルワールドでは病院前と分類されます。まだ病院に収容される前だからです)ですから、状況評価から始める必要があります。
各項目について、細かく見ていきましょう。

1. 状況評価
1-a. 個人防護具を装着する
どんな感染症を持っているか判らない相手なのですから、感染源になりうる体液(血液を含む)に触れてはいけません。手袋、ゴーグル、マスク等を装備するのが賢明です
1-b. 現場の危険性がないか確認する
慌てて助けに行って、自分まで怪我をしたら救助不能になります。

ストーリー上の現場を評価すると、

・バイスタンダーによる危険はない
(バイスタンダーが攻撃してくる可能性は常に考えること)
戦闘直後であるが、戦闘そのものは終了し、バイスタンダーである他の審問官は全ておとなしくなっています。危険はないと判断します。
・危険な動物が放置されている
具体的には馬のことです。馬は悪気なく人間を害せる大きさがあります。
ファルマの馬は薬局に戻っていますが、異端審問官の乗ってきた馬がそこらにいるはずです。
馬のコントロールがされていませんから、ここは危険性が残ると判断します。

と考えることが出来ます。

1-c. 傷病者の総数を確認する(初期トリアージ)
とりあえず、立って歩けないメンバーは他に居ない様子。
今回は緊急を要する怪我人は他に居ないと考えます。
1-d. 必要資器材の見積もりと応援の要請
処置を開始する前に治療に必要となる資材、器材を見積もり、持参します。治療のためには環境が整った、資器材のある場所に患者を移動させる必要がありそうですから、移動させることを前提とした資器材があるかどうかを考えます。

止血用器材、固定用器材は最低でも必要になります。

またこの時点でははっきりしませんが、落馬しているので脊椎にもエネルギーが加わっています。チェックが終わるまでは脊椎を保護しておきたいところです(受傷時は戦闘中で興奮状態だったため、平時同様に痛みで動きが制限されると考えないほうが良さそうです)。

その他にも、地面に叩きつけられた際に、肝臓や脾臓、腎臓と言った臓器を損傷している可能性があります(衝撃で破裂することがあります)から、体の中で出血が始まっている可能性は考えなくてはいけません。
この場合、必要になったらすぐ輸液が開始できるよう、静脈路の確保をしておくのも良いでしょう(注:日本の救急隊は補液の出来る条件にかなりの制限があります。国によっては可能です)

ところがストーリー上では、現場にはファルマ(11歳男性)が運べるサイズの鞄に収納した物資と、ファルマがその場で生成できる物質しか準備がありません。とりあえず止血と固定くらいは可能と考えてみましょう。

1-e. 受傷機転の確認
目の前にある傷に気を取られず、「この患者がどうして受傷したのか」を考えることで見えない損傷の可能性を評価し、外傷の見落としを減らします。ただし、見落としをゼロにすることは出来ません。
リアルワールドでは「病院でその可能性が否定されるまで、潜在的な外傷があるものとして考える」が基本になります。

ストーリー上では神術攻撃を受けて馬が竿立になり、そのまま馬ごと転倒しての骨折です。
ここで攻撃が衝撃波を含むものか、含まないものかでエネルギー量が変わるのですが、簡単のためにとりあえず爆風の直撃は受けていないものとしましょう。
転倒時に鐙から足を外して左足から地面に落ちたのか、鐙から脚を外せずにそのまま転倒して足を挟んだのか、そこまでは不明です。
また転倒時には、地面に体幹部の左側を叩きつけられていますが、第13話29ページでは右肩を押さえていますので、右の打撲もあると考えます。

ここまでを踏まえてサロモン氏の受傷機転を考えると、この受傷機転から考慮すべき外傷は以下のようになります。

* 実質臓器(中身がみっちり詰まった臓器)の破裂
叩きつけられたのは主に左側ですから、特に脾臓や左腎臓が破裂する可能性も考えておきます
* 胸部外傷の可能性
一緒に転倒した馬の頭部で胸や腹を強打されている可能性を考えます。ただし生きて動いてますから、大動脈破裂などの大血管損傷は考えなくて良いでしょう。胸部は肋骨折および気胸に注意が必要になります。
* 腹部外傷の可能性
腹部の鈍的外傷の場合、肝・脾破裂の可能性を考慮する必要があります
* 骨盤骨折の可能性
叩きつけられた際に骨盤部に力が加わっている可能性も考えたほうが良いことは良いでしょう。ただし動き回ってますから、可能性は低そうですね
* 頚椎損傷、頚椎捻挫の可能性
高所から地面に叩きつけられてますから、頚椎にも影響があった可能性を考えます。なお頚椎捻挫(いわゆるムチ打ちですね)の症状は事故当初ははっきりせず、数時間以上経ったあとに出てくる事もしばしばです。
* 頭部外傷の可能性
意識消失の有無はこの時点では判りません。有無がはっきりするまでは頭部を強打した可能性を否定することはしません。

ここまでが教科書通りの状況評価になります。

ではここで、ストーリー上重要な要素である主人公側の条件に戻りましょう。
主人公の中身は31歳日本人男性、職業は薬学系研究者です。
外傷初療の訓練は受けておらず、臨床経験もなし。
この人に、上記の評価は可能でしょうか?

……無理と考えるのが妥当でしょう。

というわけで、上記の評価については「いっさい触れない」「主人公にこれらの行動を取らせない」のがストーリーとして極めて自然ではないかと考えられます。(そう、これだけ考察しても「使わない」と判断するわけです)

傷病者を評価する(2)

さて、主人公には無理と判断した状況評価ですが、テキスト通りに行った場合、これが終われば次に傷病者の初期評価に移ります。
最初のステップをすっ飛ばして次の手順に移るのはリアルワールドのプロなら厳禁ですが、初心者やアマチュアであれば飛ばしてしまうのは起こり得ることです。ここでは次のステップも「主人公に取れる行動か否か」を引き続き見ていきましょう。
ここで重要なのは「直ちに命に関わる状態であるか」の評価をまず行う、という点になります。

1.接近しながら確認する項目

 1. 全体の印象
 2. 年齢
 3. 性別
 4. 推定身長・体重

最初はまず全体をざっくりと捉えるんですね。
この部分は接近しながら行います。何も考えずに駆け寄ってはいけません
ここで年齢性別は患者のリスクを評価するための情報です。高齢者や小児では重傷の危険性が増していますし、女性なら妊婦(=救うべき命が2つある)を考えなくてはいけません。
傷病者の姿勢や動き方も観察します。
明らかに見て取れる生命に関わるレベルの出血のがあるかどうかも、ここでまず確認します。

ストーリー上は「30代男性、鍛えていそうだから推定体重90kgくらいかな。身長185cmくらいで良いか?発汗してるから、かなり疼痛を感じているだろうな」といったところでしょう。

2.意識レベルの確認
 接近後、

  A 覚醒していて、見当識がある( Alert )
  V 声掛けに反応する( Respond to Verbal stimuli )
  P 痛み刺激に反応する( Respond to Pain )
  U 反応なし( Unresponsive )

 のどれに該当するかを確認します。

ストーリー上はどうかといいますと、サロモン氏は会話できているように見えますからAに分類したいところですが、主人公の話を全く聞いてないんですよね、この傷病者……
「言葉に反応するが混乱している」としてVに分類したほうが無難ではないでしょうか。
あまり嬉しい状態ではありません。

3.気道の評価
ここは意識レベル確認の時に、傷病者に話しかけることで2ついっぺんに済ませる事もできます。
気道(空気の通り道)がふさがっていたら喋れませんから、何らかの反応を返せる傷病者であれば、話しかけて確認することが可能です。
ストーリー上は、サロモン氏の意識レベルはさておき、きちんと話ができてますからここは問題なしです。

4.呼吸の評価
実際には

・ちゃんと息を吐いているか
・呼吸回数は正常かどうか
・呼気に含まれる二酸化炭素量は正常であるか
(カプノメーターが必要です)

を確認します。
呼吸回数が多いようなら異常と判断して酸素投与を行いますが、この時、サチュレーションモニター(酸素飽和度測定機)が必要になります。
作中では測定するための機械もありませんし、普通に喋れてますし、とりあえず問題ないということにしましょう。

5.循環の評価
脈が触れるかどうかを確認の後、触れるなら脈拍数とリズムを確認します。
ショック(危険なレベルでの循環の破綻)の有無を確認するのもこの段階です。
次のような所見があればショックを疑います。

・皮膚が青白く、冷たく湿っている
・脈がか細い
・意識レベルが低下している

外出血がある場合、用手圧迫(手でおさえる)または包帯(バンデージ)を用いた止血を行います。

さて、作中ではどうかといいますと……

意識レベルがおかしい。

はい、循環でひっかかりました。
脈拍数も確認して、多いようであればこのあとすぐに危険な状態に陥る可能性がある、と判断します(体の中で出血している場合、しばしば起こる事です)。

さて、ここまで確認したところで、再び主人公という要素に戻りましょう。
過労死した薬学系研究者31歳、上記のチェックは可能でしょうか?

……無理っぽいですね。

ただしここでファンタジー要素が入ってくるのは忘れてはいけません。主人公には「診眼」というチート技能がついていますから、全身検索する気になれば可能です。素早く検索して見落としの可能性を減らせます。たいへん羨ましい限りですね。

では、主人公は全身検索をする可能性があるでしょうか?

……普通は目立つ外傷に気を取られるから、多分やらないよなあ。

というわけで上記の考察もまた、「主人公はこれらに思い至らないほうが自然」と判断されます。踏んでる場数が圧倒的に足りないからです。
ざっくり状況を考察して、ここまではストーリーに修正の必要はないと判断する部分になります。

というわけで、「リアルワールドならこうするよ、をなんでもかんでも持ち込むよう勧めてるわけじゃないよ(むしろ入れないことを勧める場合もあるよ)」というお話でした。

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