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その糸は使えるか?~「異世界薬局」設定裏話、あるいは縫合糸について~

異世界薬局」の設定考証をなぜかお手伝いしている中崎です。
なんでお手伝いしてるのか本人にも謎なんですが、気にしないことにしてください。私もよく判ってないので。

第一回ということでまずは自己紹介。
良くいる救急・総合診療系の医師です。本来は総合診療および病棟管理を主業務とするはずなんですが、救命センターや僻地の二次救急、人工透析導入や維持透析、ちょっとした外傷などの治療などもやりますので、まあ何でも屋の医者ですね(外傷は初療のみで、本格的な治療は他科に引き継いでおります)。
なお標榜診療科は内科ですが、諸般の都合により公衆衛生系も少しだけ携わっています。
本当に何でも屋ですね。腔は開けないけど。
え、昔のサイトで書いてたのと職業違うだろうって?医学部に学士編入して転職しただけですよ。

さて、本題に参りましょう。
今回はコミック第14話でちょっとだけ出てきた縫合糸についてのお話。

思いっきりぶっちゃけて話しますと、縫合糸の登場シーンは2ページしかありません。
正直いって読者の方には「ドウデモイイ」話でしょう。一般的な話をするなら、「糸?なんか縫ってるんだよね」で終る話でしょうから。

駄菓子菓子。
実際に使用する人にとって、この糸の材質はとても重要です。
というわけで、こういう細かいところも考証の対象にします。

まずはとっても長い前説から

一般的に、糸に要求される性能(あるんです)は次のようなものになります。

・傷がくっつくまでしっかりホールドしてくれる
・糸で無駄に組織を損なわない
・組織の修復を邪魔しない
・できるだけ異物を残さない

しっかりホールドしてくれる、は解りやすいんじゃないでしょうか。
体が傷を直し終わるまで傷口を寄せとかないといけません。
特に血管や腸管だと、きちんと塞がる前に開いてしまうと大変なことになります。体の中で派手に出血したり、お腹の中にウンコが漏れたりしますので(なおウンコもれると腹膜炎を起こします)。
そういう事を防ぐために、「しっかり縫えて、傷が治りきるまでは組織をホールドしてくれる」機能が必須です。

2つ目の「組織を損なわない」というのはちょっと想像がつきにくいかも知れませんが、現代の縫合糸ってかなり頑丈なもんですから、組織を縫い合わせて糸を結ぶ時にぎゅぅぅぅぅぅぅ~と力を入れすぎると、組織がぶっちぎれたりするわけですね(あるいは手で結んでる場合ですと、頑丈な糸ですと研修医の指が切れることもありますが、そちらは気にしません)。そんなわけで、縫って結べばしっかりホールドしてくれるけど、無駄な力を入れなくても済む糸(および結び方)というのが必要になります。

3つ目の「組織の修復を邪魔しない」、これはピンとこないかもしれませんが、組織がくっつくのを邪魔する成分が溶けだしたりしない、とざっくり理解して構いません。

4つ目の項目については、「人体と異なる物体はすなわち、そこにバイキンがたかってトラブルを起こす場所となる」と簡単に理解しておけばよろしいでしょう。バイキン(細菌)の巣になる場所は少ないほうが良い、ということです。

さて、ここまでの項目を理解した所で、現実世界にどんな糸があるかを考えてみましょう。
分類としては、以下のようになってます。

・体に吸収されて消える糸(吸収糸)か、そのまま残る糸(非吸収糸)か
・単一繊維で出来ている(モノフィラメント)か、複数の繊維を編んだもの(ブレイド)か
・天然素材か、合成素材か

それぞれの特徴はこんな感じです。

吸収糸
一定期間は強度を維持できるが、やがて脆くなって吸収されて消える。
早く吸収されすぎると傷がくっつく前に糸が役に立たなくなりますが、やがて消えてくれるので異物が残らないのが良いところです。
消化管や筋膜、尿路生殖器、胆道系などはこれを使います。

非吸収糸
ずっとそのまま残る。
吸収されないでそのままいてくれるので、がっちりホールドし続けるには良い。ただしいつまでも残るので、たまに感染巣になる。
血管、神経、骨膜、靭帯、皮膚などに使います。

モノフィラメント
一本の繊維で出来ており余計なデコボコや隙間がないため、感染巣になりにくい。
また滑りもよく、縫う時に組織を傷つけにくい。
ただし一般に固くて結びにくく、結び目が大きくなりがちな上、機械的なダメージに弱い。

ブレイド
複数の繊維で編まれているため柔らかく、取扱が楽。結ぶのも楽。
滑りが悪いので結び目もしっかりしている。ただし組織に傷が付きやすい。
かつ、隙間があるので細菌が伝搬するリスクも有るうえに、感染巣になることがある

素材については、現代だと加水分解する合成吸収糸・ナイロン・絹くらいがメジャーでしょうかね。
モノフィラメントの非吸収糸(ナイロン)やブレイドの非吸収糸(絹糸)はよく使います。
吸収糸についても、モノフィラメントもブレイドもあります。ただし現在は天然素材がなく、合成素材しかありません。

さて、ここまでが話の前置きです。
ずいぶん長かったって?
うん、長いです。それは認めます。でもここまで知ってないと考証に入れないもんですからご容赦を。

さて、本題。まずは舞台設定を考える。

では次に、物語世界の検討に入りましょう。
傷を縫うという作業は同じですから、糸に求められる性質は現実世界と変わらないものとします。
何が違うかと言えば、「その糸は作れるのか」というあたりです。
縫合糸を製造する場合、必要なのは糸のスペックだけではありません。
「工業的に滅菌できるかどうか」も重要なファクターになってきます。糸に微生物がくっついてると、感染の原因になるからです。

というわけで、ここらは作者さんにお聞きして確認します。
「異世界薬局」という作品の場合、主人公は物質合成能力を持ってます。必要な素材がポコポコ作り出せそうで、設定考証も非常に楽ができそうです。主人公が作れますから!と言えば終わりに出来るし。
……ところが。
そこで分かった内容は以下のとおりです。

・素材は単一化合物の塊としてならファンタジー手法で作成できる。糸として作るのは無理

……いきなり詰みましたね、これ。
理想を言えばポ○グラクチン(バイクリル(R)の素材)やナイロンを糸状にニョロニョロ~っと出してもらえると良かったんだけどなあ。まあさすがに編んだ状態では出てこないだろうと思ってましたけど、モノフィラメントでさえありません。塊だそうです。
そしてさらに言うと、滅菌方法が問題になります。なんせこの世界、ガンマ線照射がないですからね。

ここで重要なのが、「滅菌」の場合は微生物をとことん殺さなくてはいけないという点です。
糸を弱らせること無く、芽胞と呼ばれる状態の微生物まで殺したいところですが……この世界だと、煮沸するくらいしか方法がなさそうです。
仮に塊から糸として作れたとしても、加水分解する合成素材って、茹でて大丈夫でしたっけ?自信ありません(化学屋さんじゃないもんで、そのへんあやふやです)

というわけで、糸を主人公自らが合成するという手段は「なし」としました。

じゃあ、素材は何?

この第14話で縫合糸が必要になるのは、血管結紮・筋膜の縫合・皮下組織の縫合・表皮の縫合といったところでしょうか。
非吸収糸なら、絹が使えそうです。これなら編んだ後茹でればいいですからね(絹はその製造工程に置いて、生糸をとる段階で茹でてます)。
シルクブレイドは昔からありますし、妥当な線では有るでしょう。
問題になるのが筋膜と皮下組織の縫合ですが……ここは絹糸を使うとゴロゴロした感じが残りますからね。
とはいえ、一種類持っていくなら絹糸になるのかな。

そしてリアルワールドの歴史は

先に「現在は天然素材の吸収糸がない」と書きましたが、『現在は』とわざわざ書いた理由は、今は売られていないけど天然素材の吸収糸というものが実在していたからです。
腸糸(Catgut、カットグット)と呼ばれるのがそれ。

字面を見てびっくりした方もいると思いますが、ご安心ください。猫は使いません

腸糸の歴史そのものはけっこう長いようでして、紀元前3750頃に書かれたEbersパピルス(エジプト)にも、乾燥させた動物の腸を縫合に用いたと記載があるそうです。紀元前1500年ころのインドの文献では綿・銅糸・馬毛・腸糸の記載があったりするようですね。
これら古い時代のものはちょっと判りかねますが、19世紀の腸糸は主に、牛や羊の小腸を用いて作られていたようです。
作り方は以下の通り。

1.小腸の一番外側の漿膜と、一番内側の粘膜をはぎとります
2.残った部分(粘膜下層と筋層)リボン状に切り分けます
3.リボン状になったものを撚ります
4.引き伸ばして乾燥させます
5.表面を少し削り、結び目を作った時に滑って解けない程度に粗くします

この腸糸の吸収性を検証したのがあのジョセフ・リスター。石炭酸消毒で術後感染を劇的に減らしたあのリスターです。
そして1868年に子牛を使って腸糸の吸収性を確認したリスターは、翌年にはフェノール水溶液を用いた腸糸の消毒を試みています。しかしこの水溶液を用いる方法では糸の強度が保てなかったため、オリーブ油溶液に変更してみたりもしたようです(オリーブ油とフェノールの溶液の場合、強度は保てるものの滅菌は不完全で、未処理糸よりましという程度であったようです)。
この後も様々な方法が試みられましたが、腸糸の性質を損なわないままの滅菌は困難でしたから、感染リスクは相変わらず残存していたようです。

特に問題視されたのが破傷風菌。
草食動物の腸内にいる上に、人間が感染するとえらい目にあいます。
しかも熱やアルコールにある程度強い『芽胞』という形態を取れる厄介なやつ。
この破傷風菌を除去するのは困難で、20世紀になってもリスクとみなされる存在でした。

……滅菌しやすく品質も一定した合成吸収糸の登場とともに、腸糸が消えていったのも無理のない話ですね。

参考資料(の一部)

"The story of Catgut" Holder et al., Postgrad Med J, September 1949
外科の歴史」W.J.ビショップ、時空出版、2005
"Surgical progress-100 years ago" J.H.Patrick et al., Annals of the Royal College of Surgeons of England (1977) vol 59
ケルスス『医学論』(9)(古典医学書翻訳)
”Two Hundred Years of Surgery” N Engl J Med 2012;366:1716-23

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