平成生まれから見た連合赤軍

 連合赤軍について知ったのは、つい最近のことだ。山本直樹の「レッド」という漫画を読んで知った。一度は読むのを挫折した。二巻の途中でいよいよ話の内容がつかめず、また、登場人物が多すぎて誰が誰だか分からなくなってしまったのだ。

 それからしばらく経って、映画「突入せよ!あさま山荘事件」を観た。その映画が警察側の一面的すぎる視点で描かれていることに疑問を抱いた。果たしてこの見方だけでいいのかと。それで再び「レッド」を読んでみた。

 二度目の挑戦では、なんとか読み進めることができた。難しい言葉はいまいちよく分からないものの、狭い部屋に何人もの若者が肩を寄せ合って話し合っている姿がいいなと思った。自分の大学時代を思い返してみて、ほかの学生との交流がほとんどなかったから、うらやましいと思ったのだ。それから今とはセキュリティ対策が格段に違うため、銀行強盗をたびたびおこなって成功するなど、なにかとスリルのある日々だったんだなと思った。

 山岳ベースでの事件は「レッド」を読んで初めて知った。あさま山荘事件が最大の事件かと思っていたが、そうではなかった。

 ものすごく怖かった。

 しかしその怖さは他人事とは思えなかった。自分もそうされるだろうし、あるいは誰かにそうするかもしれない。それに関しては「あの時代だったから」とか「彼らだったから」とか、そういうのはあんまり関係ないんじゃないかと思う。状況や程度の違いこそあれ、誰もが起こしうることなんじゃないか。ただ「あの時代だったから」「彼らだったから」というふうに自分とはまったく関係のないことだと思い込んだほうが、精神的には楽なんだろうと思う。

 「レッド」を読み終え、加藤倫教の「連合赤軍 少年A」と坂口弘の「あさま山荘1972(上)」を読んだ。もちろんあの時代の背景や事件の全容すべてを把握し、彼らの考えすべてに共感したわけではないが、自分にも通ずるものはあった。何より彼らの言葉の重みを強く感じた。

 つづいて、プロジェクトXの「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」を観た。これは主に陰で警察を支えた村の人らに焦点を合わせて描かれていた。その村の人らにしてみれば、危険な目に遭ったわけだから連合赤軍のことが憎いだろうし、警察からすれば、命がけの突入作戦で殉職した仲間がいるわけだから、彼らのことが憎いのは当然だ。

 そのあと、朝山実の「アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年」を読んだ。これは連合赤軍事件に関わった人たちにインタビューをおこなったものだ。
 第一章での前澤虎義の「大変なことをやろうとして、大変なことをやったんじゃない」とか、第二章での加藤倫教の「特殊な人間が集まって、特殊な出来事をやったというんではない」という言葉は、事件のことをリアルタイムで知らないからなのか、「なるほどそうか」と抵抗なくスッと入った。

 それから、パトリシア・スタインホフの「死へのイデオロギー」を読んだ。テルアビブ空港襲撃事件の犯人である岡本公三へのインタビューから始まり、その事件から遡るようにして連合赤軍の粛清について述べられていた。粛清のところでは、日本とアメリカの文化や考え方の違いがたびたび述べられているが、それは暗にアメリカのやり方のほうが正しいと言いたいのか、それは著者の偏った見方に過ぎないのではないか、と思うことがいくつかあったものの、当事者とは違う視点から事件について考えることができた。

 わたしが平成生まれだからか、あるいは連合赤軍に関わった人が周りにいないからなのか、山岳ベースの事件に関して恐怖は抱くものの、彼らに対して憎しみや許せないという感情はさほど抱かない。お前には亡くなった人の痛みが分からないのか。平和ボケしているのか。バカなのか。たぶん全部だろう。

 高校の世界史の授業で教師が「共産主義は失敗した」と言った。西ドイツと東ドイツの発展の違いや、共産主義だと人々の労働意欲が湧かないことを例に挙げていた。「なるほどそうなのか」と納得する一方で、「でもみんなが平等の世界っていいよなあ、実現しないのかなあ」とも思った。