西巻真歌集「ダスビダーニャ」一首鑑賞

いちまいの海に終はりがあることを知るかなしみに絵は途切れたり(西巻真「ダスビダーニャ」より)

***********

例えば今目の前に一冊のスケッチブックがあったとして。
例えばそれを開いたとして。
そこにはまだ何もない。
絵筆やクレヨンを手に、その何もない空間へと手を伸ばし。
そうして目の前にあるものを、そこに取り込んでいく。

絵を描くということは、世界を認識し、再構築していく作業だ。
絵に描かれた瞬間に描かれたものはそれでありながら、それとは違う位相でまた産声を上げる。
絵は、いや絵に限らず、芸術とは、新しい世界を再発見し再誕させる方法なのかも知れない。

ところで、人間には二つのタイプがある。
目の前に紙を差し出され「絵を描いてごらん」と言われた時に、その紙の範囲に絵を描くひと。
その紙の範囲をはみ出して、床や壁にまで筆をひろげるひと。

床や壁に絵を描いてはいけないよ、と言う情報は教育によってもたらされる。
幼児は絵を描くのを好む。家中の至る所に絵を描く。しかしその事を咎められ、いつしか紙の上にだけ絵を描くようになる。
与えられた紙の中に絵を収めることを強制される、絵とは紙の上にあるものであるという意識を常識と言い換えて押し付けること。それを教育といい教育によって醸成された世界を社会という。

当たり前であると、社会の通念や常識と言われるものに範囲を限定して、それを「みんながそうしている」という同調圧力でそれから外れるものを阻害する。
絵をはみ出して描く者はまさにはみ出しもの、と見做されてしまうのだ。

海は広大だ。
その海を再誕させる行為は、人の手に余るだろう。
彼はそれを知っている。知っているからこそ、自らの感性のままにより広大により美しく描こうとする。
けれど、より近くより大きく海を描こうとする時、彼は限界に気づいてしまう。

紙からはみ出すほどの絵を描こうとしても、紙幅には限りがある。それを越境してもなお描こうとすれば、それははみ出しものの所業であろう。
社会の通念という枠組みに縛られて自分は埒外であると感じながらも、通念の外に出られない。
あるいははみ出してしまう自らの業を悲しむのか。

西巻真「ダスビダーニャ」は、はみ出したくない者がはみ出さざるを得なかった生を葛藤する歌集であった。
西巻の見る世界は大きく美しい、けれどその世界には枠組みがあり、悲しみがあり、生きることはとても困難だ。

歌人はそれでも生きていく事を選んだ。歌を詠み、世界を少しずつ愛しながら。
途切れる紙を、付け足し続けている。
そんな風に感じた。

歌集サイト↓↓↓
https://dosvidanya.stores.jp/?all_items=true

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?