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夏になると想い出す懐かしい患者さん

■出会い

もう20年以上前のことです。僕もまだ40代、今から思えば経験不足の若造でした(僕がナラティヴ・アプローチと出会ったのはもう少しあとのことです)。その患者さんは80代のとても可愛らしい独身女性で、毎週欠かさず教会に通うクリスチャンでした。彼女は若い頃、ある米国人家族の家政婦として長年働いていました。そして、そのご家族がサンフランシスコへ帰国することが決まったとき、ご主人から「あなたにはこれからもずっと我が家で働いて欲しいから、一緒にサンフランシスコへ来て欲しい」と頼まれ、渡米し、その後、帰国されたという女性です。茶目っ気のある、それはそれは可愛らしいおばぁちゃまでした。彼女は高齢ではありましたが、当時、インスリン頻回注射をしていました。

■美味しいワッフルを一緒に食べた想い出

彼女が住む高円寺という街にはとても美味しいワッフルを食べさせてくれる紅茶専門店がありました。高円寺は僕の家内の実家がある街なので、僕はしばしばそのワッフルを食べに出かけていました。ある日、彼女にその美味しいワッフルを一緒に食べに行きませんか?と誘ってみました。彼女は大喜びでYesと快諾してくれました(そう、会話の端々に英語が飛び出す女性でした)。そこで僕はその店の常連客の特権を行使して「糖尿病患者さんにお宅の美味しいワッフルを食べさせたいので、ワッフル1人前の砂糖と小麦粉の量を教えてくれませんか?」と尋ねたところ、親切に教えてくれました。そこでインスリン/カーボ比からおおよそのボーラスインスリン必要量を計算して、待ち合わせ場所に向かいました。ところが現れた彼女は「今日はめんどうだからインスリン注射は持ってこなかったわよ」と大声で笑いました。このため、僕の下調べは結局役に立ちませんでしたが、彼女は、それはそれは美味しそうにワッフルをペロリと平らげました。

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■サンフランシスコでの想い出を胸に抱きながら生きる

彼女は80代になってもサンフランシスコでの生活をとても懐かしく想っているようでした。例えば、こんなエピソードがありました。東京の夏はとても暑いのですが、彼女のアパートにはクーラーがありません。そこでサンドイッチを作って、クーラーが効いている地下鉄丸の内線に乗って、晴海埠頭まで行き、昼食のサンドイッチを食べながら、海の向こうのサンフランシスコでの想い出に浸る時間が好きと語ってくれました。とても熱心なクリスチャンであった彼女はきっと今も天国であのチャーミングな笑顔で周囲の人々を幸せな気持ちにしているのではないでしょうか。そんなことを想い出したら、少し幸せな気分になりました。

■疾病だけでなく、その人と物語を共有することの大切さ

皆さんにもこうした懐かしい患者さんがいらっしゃるのではないでしょうか?僕は夏になると、晴海埠頭で太平洋を眺めている彼女の姿が蘇ることがあります。そんなとき、僕の心の中に彼女はまだ生きているのだと感じます。僕には少し後悔があります。それは彼女が胸の中にずっと大切にしていたサンフランシスコでの想い出の数々について尋ねることなく、彼女とお別れをしてしまったことです。医療専門職の日常はとても忙しく時間に追われる毎日ですが、慢性の病いをもって生きる人々と向き合う中で、その方の病気だけでなく、その人生の物語に耳を傾ける時間を持つことが求められます。彼女はどのようなご両親に育てられ、どのようにして米国人家族の家政婦となり、サンフランシスコでかれらとどのような想い出の日々を紡いできたのでしょうか?今となっては知る術はありません。僕は彼女のサンフランシスコでの物語を彼女と共有できなかったことをとても残念に思っています。


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