銀座ギャラリー巡り

予定通り銀座に行って牡蠣食べ放題とギャラリー巡りをしてきた。


まだ行くとこリストとしてメールつくったのにテキストデータが残ってるので行ったとこそのまま貼り付けると、


ルミエール展、14日まで、

ギャラリー椿

東京都中央区京橋3-3-10 

第1下村ビル1F


束芋展

ギャラリー小柳

東京都中央区銀座1-7-5

無料


オイスターバー&レストラン オストレア 銀座コリドー通り店

地下鉄 銀座駅 C2番出口 徒歩2分

東京都中央区銀座6-2-1


レストランあづま

東京都中央区銀座6-7-6 西六ビル

B5出口


ヴァニラ画廊大賞展

無料

東京都中央区銀座八丁目10番7号 

東成ビル地下2F


ヴァニラ画廊のはおもったよりサブカルって感じでピンときた作品は2つぐらいだった。さすがに大賞のはわかりやすく、なんか、、スフィンクスネコが消化されてできた猫玉ぽく、それでもその顔のなかに満足してるものもあり、、生と動物のわりきれないそのままを表した印象だった。もううひとつはなんかふんどし男性の像。

一緒に展示されていた自撮りエロチカが思ったよりエロく格好よかったけど、とくに購入がどうとかすごいなーっていうのでもなく、こういう遊びをするときはこういうふうに撮ると良いのだな、と参考になった。


まあ限りなくサブカルであり中野のタコシェを感じた。美術っていうか。


順番からいえば最後にいったのがギャラリー椿のルミエール展で、いろいろな不満足を払拭する満足感だったので最後にかけばよいのだけど、展示の内容と関係のないところで束芋展についての記述が長くなりそうなので順番を入れ替えてルミエール展から。


これは行ってよかった。並みの美術館展示のマンゾク、それ以上のものが自分的にはあった。欲を言えばもっといろんな作品、気に入った作家のそれをもっとみたかったけれど、そういった腹八分目なら良かったなと。

桑原弘明さんの作品メインでいって、これはもちろんよかったのだけれど今回の展示でいちばん気に入ったのは杉山健司さんの「gallery」?だった(タイトルあってるかな?)。

美術館かなにかで展示を見ている人の様子を覗き込めるようなスコープ状な作品なのだけれど、スコープと言っても閉じられているわけではなく開かられたスコープで、、でもスコープの特性としての光の当り方によって、あるいは角度によっていろんな見え方がする・印象が変わるというところが上手く活かされていた。装置自体は壁にそって下側に箱庭的にな書割空間が作られ、それを上に吊るした鏡が斜めに反射し、その斜めの鏡の像をわれわれが覗き込むことで壁の奥に空間が広がっているように錯覚することでギャラリーが表されている。

角度によって見え方が変わるといってもそこで浮かび上がる像は変わらないのだけれど、複眼によって得られた像を内部で調節する際にできる死角のようなものをうまく意識しておもしろさに変換しているのだなとかおもった。死角によってか角度を変えるとすこし見える印象が変わって「おもしろい」と感じる。感覚的にはカレイドスコープの像が変わった時のソレなんだけど、内部の像自体は特に変わっていない。

こういうのは視覚の認識について学ぶと出てくる問題意識のように想うのだけれど、特にそういう知識がなくても「おもしろい」という発見だけで案外つくってしまったのかもしれない。

まあそんなめんどくさい話はともかく、とりあえずおもしろい/おもしろかった。そして、なんとなく内藤礼さんの作品が少し前に目黒庭園美術館でやっていたことをおもった。そこで表そうとして表しきれなかったように思えたこと。展示に集う人々のその姿自体を俯瞰し相対化しなんともいえないおもしろさや慈しみを発見する、というような。

ほかにおもしろかった/滋味が気に入ったのはやはり小林健二さんで、鉱石ラジオと鈍色の落ち着いたスチームパンクだった。

こういう作品世界との出会いは自分の趣味的に落ち着くのでどんどん広げていきたい(イバラードなんかもそうだけど)。


束芋さんの息花の展示は宣伝されていたように吉田修一の作品にインスパイアされたもので、、というより、調べてみるともともと朝日新聞で連載していた時の挿絵を束芋さんが担当していたのか。


ついったにも記したけど、この展示そのものはたいしたことなく、それが好きな人には魅力だろうけど「こういうのできたんだあ」程度だった。といっても展示されている絵は繊細で独特の質感をもっていて、その乳白色とディテールの繊細は藤田宜嗣を想わせた。あとは束芋の代名詞とも言える映像作品がちょっと置いてあったぐらい。これはテーマ的には現代都市生活一人暮らし人の地味な孤独と日常みたいなの。

それをみながら「いつもの束芋だなあ」とはおもったんだけど、あらためて束芋さんの強みとか特徴というのはどういうものかとちょっとおもった。自分的にはそれは「ニュイっとしてる」ってことなんだけど。まあきちんと書くと。

現代アート的なこういった表現でよくあるテーマとしての「現代人の孤独」「日常のなかで静かに寂しく腐っていく」みたいなのを、いちおセンチメンタルに感性するんだけど、それはそれとしてドライに置いておいて、さらにそれを彼女独特の平面的表現で輪切りにするところにあるのかな。そして、平面的に輪切りにしたものを植物的なものを通じてニュイっと連結させる。平面的なところはストンとかドスコイてかんじだからまあいいとして、このニュイッとしたところが気持ち悪いのだと想う。そしておもしろい。人とか生をそういうふうに捉えてるんだあ、そういう視点もあるんだあって。

もうちょっと言えば邪悪というか、邪悪と捉えられても良いぐらいの歪なものなんだけど、それを邪悪と解釈する前にただ単に「そういうもの」としてうけとめ、束芋的な造形として表出する。なのでそこで出来上がるものはキモかわいいといってもいいものになる。藤田宜嗣の作品をみているときに同様の感想(「キモカワイイ」)をつぶやいていた人がいたし、自分の中にもそのワードが生まれたのだけどそういう感じ。こういうのは奈良美智にも通じるのだろう。


閑話休題。今回の束芋展示に戻ろう。


今回の悪人絡みの展示では彼女のそういったところが表れてなくて、むしろ受付においてあった「悪人」の挿絵のまとめ本をいまさら見てその力量・魅力を感じちょっと欲しくなった。

Amazon.co.jp: 惡人: 束芋: 本 http://amzn.to/1xjCPiD


「悪人」や吉田修一には思い入れがあって、以前に少しエントリした。


吉田修一、2007、「悪人」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/51177686.html

吉田修一、2008,「さよなら渓谷」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/184569934.html


「殺人を犯したものと法的には罪を犯してないので罰せられないが人としてどうなのだろう?という行いをしたもの。そして地味に生活の中で罪を重ねる人たち。誰がいちばん悪人なのだろう?」、という問いにたいして、かつての自分のなかでは増尾がもっとも悪人のように思えていたけれど、現在は少し違うし、束芋さんの視点をみてそれがより強まった。


悪人/吉田修一のあらすじと読書感想文 http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/hon/091.html


祐一は被害者のように思えたけど、育ててくれたおばあさんに対して地味に罪を重ねていて、でもそれは若者なら仕方ないし生活の当然で…。そして、なにより光代に対して依存という罪を犯す。光代は光代で甘えを切り捨てられないし。

祐一を利用するだけ利用して残酷に裏切りそれによって殺されてしまった佳乃も、かつての自分的には悪人にしか思えなかったのだけれど束芋さん的にはむしろその被害者性にまなざしを向けていた。

人生が流転するものであればかつての佳乃は遊女として祐一に利用されていたのかもしれないとも。


そういう視点は言外に挿絵のなかに表れていて、そこでは「誰が悪人?」てことよりも吉田作品に漂う現代人の寂しさ・疎外感・生活のなかでの納得・流すこと/流されることみたいなのがうまく切り取られていた。


そして、そういった寂しさもすべて最後には花として咲き、人は、人の生はそのための糧ということなのだろう。良きにせよ悪きにせよ、その花が他人からみて美しくても美しくなくても。


「花が良い/花になる」ということだと松本大洋「ZERO」「花男」を想起するし、それを想起するのはテーマとしてリンクというよりも彼女の挿絵の質感が松本大洋のそれにを想わせるからだろう。


そして、今回の息花の絵としての表れではボリス・ヴィアン-岡崎京子「うたかたの日々」をおもった。

岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html


知っての通り「うたかたの日々」は裕福で幸せな若夫婦がある日正体不明の病に憑かれ、肺に花を咲かせて死んでいく。


今回の束芋展に興味をもったのはもともと「うたかたの日々」を読みなおしたからなのだけれど、「花になる」「植物になる」という思いはどういったところに咲くものかとあらためて想う。


それはにんげん的な性-権力につかれたときに現れてくるもの、「もう人で居たくないし動物ほどもはっきりと補食したりされたりするような主張/闘争/生命の負担・依存もしたくない。ただ、きれいな水を飲んで陽の光を浴びて死んでいきたい」、というところなのかもしれない。

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そこでは性も生も乳白色なエロスを残したまま、ただ咲き、ほそぼそと枯れていく(ただ咲き・枯れていくだけなのだからしっかり立ちなさい)。


なので、束芋さんのあの画を買った人も/似合う部屋というのもそういうところなのかなとなんとなくおもった。



現代美術作家 束芋(Tabaimo)とは - NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2137917578602507901



ちなみにカキフライ食べ放題は3月末までなのでご興味あったらその辺りまでで。

カキフライはどんどん揚げたて出ててくる。自分はピーク外した?13:30ごろにいってちょうどよかった。ちなみにこのコリドー(回廊、というか、飲食店が安くテナントを借りられるというガード下の店群を中心とした店並び)は魅力的な店が集まってるのでここを外してもランチ難民にならずに済みそう。近大マグロとかもあったし、洋食あずま(1000円でコスパが有名な洋食)も近い。

ギャラリーめぐりとしてはブリジストン美術館も総集編的な展示をやっていて質も高いので一緒に回っても良いかも。あるいは上野とか。



銀座帰りの地下鉄口に行乞の坊さんを見て

帰り着いた地元で梨園の桃?に集る雲雀と夕景を眺む


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