かっぱさん、朝に翼(走る)を取り戻しもりもり食べる、の巻

今日は休み。

朝起きて( ゚ ρ ゚ )ボーっとしつつやる気も起きないのでとりあえずいろいろ片付けたり、もうちょっとしたらやるだろうジョギング用にちょっと靴ずれなナイキフリー(ジョギングシューズ)に靴ずれパッド当ててたら流れで走りたくなったので試しに出掛けてみた。さいきんの様子だとそれまでよりも膝が傷みにくくなってるみたいだし膝に負担をかけない走り方もマスターしてきたようだし。まあ様子見短距離なのでちょっと痛くなったら歩いて帰れば良い。2~3km。

結果的に膝は痛くならなかったので実験成功。呼吸的にも以前のフォームよりもつらくなく良い感じ。しばらく走ってなかったので体力が落ちていたけどリハビリしてきたら以前よりも楽に10kmとか走れるようになるだろう。とはいっても帰ったら太ももの膝のあたりの筋肉とふくはぎに筋肉痛的なストレスきてたけどこのぐらいの距離で。。

走るフォームはちょっと前から日記で書いてる飛脚的?なフォーム。太ももを半回転して股関節をねじり込むことでストライドを増す+上下動をなくす、みたいなの。これに加えて肩甲骨からの上体半身半回転で推進力を増す。

このフォーム自体は歩いてるときとそんなに変わらないので、逆にこのフォームで走ってる時の楽さ・速度から「この身体使いで歩いてたらそりゃ周りが遅すぎるように感じるようなあ。。歩くのと走るのの中間ぐらいだもの。。」とか思う。


まあとりあえず様子見でしばらくこの距離をちょこちょこ走ってリハビリしていって物足りなくなってきたら段階的に距離を伸ばしていこう。



軒先に鯉のぼりが出してあるのを見て(ヽ´ω`)…ちょっと前まで桜花見だったのにもうそんな季節なのだよなあ。。とか思う。


自分ちののれんもそれに倣う。

ベランダのじょうろに桜の花びらがあって少し和む。よくこんなところまで飛んできたねえ、という感じ。うちの周りには桜はなくてアパートの二階だし。普段は桜吹雪も見ない。

ついでにうちの花びらも

さくら色




帰りに魚屋で鰆の切り身をみかけるも3枚700円超えで独り身には高い。持て余すし。1枚から売ってくれ。。ボタンエビもキラキラきれいでおおきかったけど5尾で700円超えだった。1尾からにしてくれ。。

きょうも季節のもの買えなかったなあとか思いつつ、わらびやらうるいやらは安く置いてあるのだけど扱ったことがないので躊躇する。以前、フキノトウを買ったのだけど失敗して苦くなったので。こういうのはネットでレシピを調べれば出てくるのだけど、実家の時から食べる習慣がないので正解がわからないというのもある。まあでもいまは以前よりもゆっくり丁寧に料理するようになったのでレシピ通り作れば問題なくできるのだろうけど。和食のレシピ・ダシの配合なんかそんなに種類ないし。もうすぐなまり節も到着するだろうからそこから削り節して昆布と一緒に出汁をとればだいたいの和食はうまくいくはず。


こういうのだとそのへんにある野草とか山菜をてけとーに摘んできて料理できるようになるのが理想なのだけど、、なかなか。まあ菜の花とか土筆ぐらいはできるか今の季節なら。


これ系だと石牟礼道子さんの「食べごしらえおままごと」がきれいな本なので手元に置いておこうかと思うもいちど図書館で借りてからということで予約。まあたぶん買うことになるだろう。文庫で安いし。

このへんもきれいで気になってるしちょっといってみたい。

馳走 卒啄 (ちそうそったく) - 銀座/懐石・会席料理 [食べログ] http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13000587/

平松洋子『いま教わりたい和食 銀座「馳走 ソッ啄」の仕事』|新潮社

http://www.shinchosha.co.jp/book/602252


さいきんなんだかきちんと料理をするのをさぼってて遺憾なあと思うのだけどだいたいは日々のルーチンで事足りてしまうので。ある程度ちゃんとした料理も作れないこともないのだろうけど、ふだんの習慣に入ってないのでPull的に引き寄せないとどうもやる気にならない。んでもこういうきれいな料理本があるととりあえずちょっと作ってみようかという気になりそう。「レシピとして参考」というよりは「あ、きれいだからちょっと作ってみようか」みたいなの。

そういう意味で飯島奈美さんの本なんかも買ってみた。

http://harold-spm.com/ryouribonn-osusume/


雑誌「考える人」の料理・食事特集もそんな感じで眺めていた。タコライス発祥の話なんかが知識的にはへぇだったけど。ほかは料理とか食事に関する思い出みたいなかんじで。


食べること、きれいなものを作ることみたいなのもあまり精神論とか入って「○○スべき」な圧力がつよくなりそれ自体がなんらかのステータスの掛け金として道具的になっていくと胡散臭くなったりめんどくさいことになっていくのだろうけど、そういうのと別に、単にきれいなものを個人的にじっくり味わうというのなら良いかなと思う。

そのへんはたとえば拒食・過食症が発生する背景にも共通してるようで、あれは「現代社会による女性への暴力」とのことだった。

現代社会における「近代人・都会人的な理想」を数値的に還元したものから、その「理想」「数字」が自らの実存を侵食していって生きること・暮らすことを破壊していく、というもの。

女性的な具体だとやれ「この身長に対してこの体重が適正」だの、やれ「この身長に対してこの3サイズが理想」だのそういうの。

それを気にして極度の減量に励み、その反動として過食する。

ぐるぐると回る螺旋階段を登っては降り登っては降りするように、食べては吐き、吐いては食べる。


「ヘルタースケルター」(岡崎京子) → 「脂肪と言う名の服を着て」(安野モヨコ)


拒食症の背景はひとぞれぞれなのだろうけど、彼や彼女たちの身体が意志に反して食べ物を受け付けなくなる時、それは身体という自然による現代社会という人工への反抗のようにも想える。反抗でありギリギリの抵抗。

ほんとは食べ物ではなく、その背景としての現代社会的なあらゆる指標を拒絶するということなのだろう。優越感ゲームの材料としてのあらゆる指標を。


まあとりあえずこの本もそのうち読んでみようと思いつつ、馳走そっ啄の平松洋子さんて今回のよむよむメモでメモってた人だったなあといまさら気づいたりしたのだった。






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