李禹煥が語る作家リスト/リヒター/Coccoのこと
きょうは休み+朝から冷たい雨なので予定通りほぼ蟄居して本読んで過ごす。買い物といえばネコの鰹節がたりなくなってきたので買い足しに。ついでに餃子用のひき肉を求めて肉屋に。
油が良いのか肉が良いのかここの惣菜はちゃんと美味しい。とんかつとかレバカツ、日南鶏の唐揚げは定番だったけどハムカツとコロッケもとは。
あらためて餃子は飲茶的なものだなと思ふ。麺というのはそういうものなのだろうな(※麺の由来としては小麦粉を麺棒で伸ばしたものはすべて「麺」に分類される)。
本としては李禹煥「余白の芸術」を読み進める。
展示に寄せた文章を通じて自分が知らなかった現代作家、合いそうな作家を知る。ゲルハルト・リヒターなんかはピンポイントぽい。ペノーネと高松次郎も。
八木山人「木蓮の図」
セザンヌ「サントビィクトワール」
マチス「ダンス」※絵を時用に見る事の難しさ
モンドリアン「一本の木を見る試み」「ニューヨークシリーズ」 (1)外界との素朴なかかわり(2)外界の一部を対象として捉える(3)その対象物を構成概念とダブらせながら整理(4)そして構成概念だけの展開図となる絵画
ゲルハルト・リヒター 一度写真を媒介とさせ再び描く→外界との対話?
ダニエル・ビュレン ストライプの作家 覆う:全体主義 部分に限定:外部性の活性化を呼び起こす非同一性
ペノーネ
アニシ・カプア
F・ステラ ××
若林奮
高松次郎
ウルリヒ・リュックリエム
白南準ナム・ジュン・パイク
ヨーゼフ・ボイス
谷川雁
古井由吉
中上健次
http://yamamotoman.tumblr.com/post/14339774452
ピエト・モンドリアン - Wikipedia http://bit.ly/1a4FEOT
高松次郎のそれはアーネスト・サトウ(写真家の方の)ぽくもある。
リヒターのそれは「観察者の系譜」で表されていた近代的視覚の擬制とそれを超える感覚-認識-問題意識を写真-絵画としてアートしたものといえる。このへんは書くと長くなるし、そのうち観察者の系譜のエントリで説明するだろうからいまはしない。たんぶらーなんかでもこういう作風はちょこちょこクリップしていたように思う。知らないうちにリヒターを通っていたのか。
近代的な視覚、あるいは認識の超越はそのまま李禹煥ともの派の課題であり、それについて書かれていたエッセイ周辺がおもしろかった。まあこれもそのうちエントリする。
いけばなについて触れられた箇所もあり、そこで「いけばな」という言葉は勅使河原蒼風が練り上げたものだと知る。ほんらいは華道だった。それにちなめば石を構成-配置-配列(コンポジション)しインスタレーションとするのは「石道」となるのだろうか。よみとしては「いしどう」「せきどう」「こくどう」、、どれもなんか硬いなと思う。せきどうはダジャレ入るので良いか。
同じ箇所で勅使河原流をはじめとしたいけばなの展示を日本橋高島屋で定期的にやっているのを知る。最近の展示は4月7日まででニアミスだったけど、22日辺りからまたやるみたい。機会があったらいってみようか。
勅使河原宏の竹を用いたそれも展示することがあるらしく期待される。
TL経由でCoccoについての文章を読んでなんとなくわかったところがあったのでメモ的に。
Cocco:表現するっていう感覚は一回もないから。
マツコ:あ、分かるわぁ。
マツコ:アタシなんかだと多少の演出はするけど、基本的に自分の持ってるものをそのまんま出すしかできない人間だから。「表現してる」って思ったことはないかも。
Cocco:そう。生きてるだけ(笑)。プロデューサーとかがいたらたぶんラクだ。こうしなさいって言われたらそうするっていうふうに、人に乗っかれるけど、プロデューサーっていう人はずっといないから。今はディレクターもマネージャーもいない。音楽を一緒にやってくれる人はいるけど。だからCoccoの生き様にスタッフはついて来てくれるわけですよ。生き様って、表現してることじゃないさ、生きてるってことさ。
もうとにかく窓からウンコするって感じ。それまで全部、真っ暗な中のクソ溜めだから、きっついわけ。ここから出たい。で、窓見つけてやっと外に向かってウンコできるっていう感じ。もうそれだけ。他になんか考えたりする余裕もなく、とにかく窓からお尻出して外にウンコするっていう。
だから最初はライヴのとき申し訳なくて。『みんな楽しんでる?』とか、そういうのがライヴでしょ。そういうわけでもないし、とにかく人がこうクソ溜めの中のちっちゃい窓からウンコするところを観にきて何が楽しいんだろうっていうのと、でもウンコしたら気持ちいいのともうムチャクチャなわけ。
だから、全然意味がわかんないの。自分が、歌が、何なのかっていうのもわかってないのに窓を見つけてしまって、ウンコしたら気持ちいいってわかっちゃって、もう意味がわからない。で、それを人が見てる、喜んでる、それが求められてるって。自分が受け入れられる手段になってるって、意味わかんない。だって想像できる?塔に窓あるでしょ、渋谷洋陽一(インタビュアー)がそこからお尻出してウンコしてたらさ、外で『ウワー!』ってなってんだよ。自分はケツの穴出して、でも気持ちいいわけ。
自分は表現してるわけではない(表現してると思ったことは一度もない)みたいなことはこのインタビューでも言っていた。
まあやはりユタな血なのかなとおもうしCocco自体が作品なのだろう(ビョークみたいに)。
「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416776457.html
自分が納得がいったのはむしろ彼女がアーティストではないということについて。
以前に、あるいは何度か言っているけど、アートというのは「ミーム的なもの」と「きちんとした方法-制約に則った創作物」の違いがあると思い、自分的には後者をいわゆるアートと呼ぶんだけど世間的にはその境界が曖昧でだいたいの世間的なアート/アーティストとよばれてるひとたちは前者―模倣者だったりする。あるいはファッションというか。。それはそのまま近代の罠であり李禹煥も問題視していたけど。
Coccoがほかのインタビューで「(現在のJ-POPに)アート・作品なんかない」みたいなことを言っていたけどたぶんそういうことなのだろう。Cocco自身を含めて。そういうことは椎名林檎もいっていた。
そのへんのソリッドさ・アートに対するまともさはご両親の影響もあるのかなと思う。
自分がCoccoに対してもっていた違和感は、彼女の詩はたしかに刺さってくるものがあるけどメロディや歌唱はわりと凡庸なことだった。なのではじめてCoccoをきいた時にはほぼスルーで、歌詞に少し注意した時に「(´・ω`・)わ、このぐらいのメロディラインのポップミュージックで腰を振ってるわとか言ってるよ」て思ったものだった。その後もそんな感じで違和感があった(なんかズレが有るよなこの人良い物持ってるんだけどてかんじだった)のだけど、もともとバレエ-ダンスでデビューしたかったのでそのきっかけ/お金稼ぎとして別のオーディションにいったらなぜかそれで存在感がひっかかって歌手デビューのほうにいったってことで、まあ納得した。
最近の活動で踊りと演劇が表現として混ざってきたのもおじいさん(真喜志康忠)の影響もあるのかなと思う。影響とか血というか、環境として受け継いできたものを引き受けたのかな。腹をくくるというか。
そういう血を継ぎつつ、あるいは変な力/感覚のズレを持て余しつつ表面的には世間的な人格/言葉遣いとして、内なるものは踊りとして昇華した人を知ってる。彼女の場合もあるときから腹をくくったとかいっていって「そのきっかけは?」「ホンモノに巡り会えたし自分は彼や彼女たちについていく/同じように舞っていけば良いとわかったから」とかいっていたけど。そのうちこのへんについてももうちょっと詳しく訊いたり訊かなかったりしたい。焼き芋でも食べつつ。
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