紅葉 / 赤富士 / ヨーロッパ・近代とはなにか?

きょうも日常生活ではたいしたこともなかったので特に書くこともないかなと思ってたのだけど照明を消して風呂に入ってしばらくぼーっとしてたらなんとなく日記にしてもいいかなということを思い出した。


きょうもバイトで通るコースの紅葉がうつくしかった。なんだったら先日紅葉狩りにいった日本庭園よりも普段通ってるこちら側のほうがきれいに色づいてるのではないかと思えるぐらいに。それはすこし寒くなってより一層色づいたせいもあるのかもだけど。

きょうの画像いけばなはそういった気分を表したもの。


急に寒くなって冬が秋の緞帳から垣間見てるものの猫たちはまだ秋を弄んでいる。そういった中で季節は進(馬≠移動)んでいき、大人はそれを顧みてアワレみ、子どもは無邪気に笑う。


昨日の16時ぐらいに見た夕景もすばらしかった。夕陽に霞む富士?を垣間見てあの場所が絶景とされる理由がわかったような気がした。


日常生活としてはだいたいそのぐらい。あとはバイト上のこまごまとしたトラブルとかあるけど、この会社のクソみたいな構造が関連してるのであまり愚痴っても仕方ないようにおもう。


今日つくった鍋はうまかった。


水分がたりないかとおもって水を加えたら出来上がりに思ったより水分が出ていた。さすが白菜。



あとは読んでる本についてちょっと。


あとがきやアマゾンレビューにもあるように、もともと精神医学史概説として依頼されたものだったようだからよくあるその手の型に沿って教科書的に、心理学や精神医学、あるいは少し広げて医学との関連での時系列のみをまとめればよかったぐらいの仕事だったのだろうけど、中井の情熱や志向のようなものがそこに込められて却っておもしろいものになっていた。

著者自身も自嘲しつつ「未熟なものだから」と謙遜していたけど、この時点での中井のここまでの同分野における研鑽の集大成であり記念碑的なものだったのだろう。平たくいうとヨーロッパ愛、ヨーロッパの歴史愛が感じられる。その部分が従来の「教科書的」なのっぺりを越えた面白みを産んでるように思えた。

未熟ながら、自分はそれなりにヨーロッパの歴史や民俗学に通じてきたような自負があるのだけど、その自分でも知らなかったトリビアルなことが当然として語られている。極めて端的に。たとえばヴィトゲンシュタイン家の歴史とその力動精神医学(臨床心理学みたいなもの)への影響と貢献とか。ロシアとはなにか?を考える時にウクライナ←ヴァイキングを当然としつつルーシのことを考えていたり。たぶんこの時代に、あるいは、中井の目の届く範囲で「ルーシ」という概念がなかったので端的にそれを表すことができなかったのだろうけど。そして、それを大きく覆うのは「ヨーロッパとはなにか?」という問いだったりする。それはそのまま「近代とは何か?」という問いに通じる。


先日のヲタとキッチュ、あるいはファッションとの関連についても思ったのだけど、あれはヲタだけの現象ではなく「近代」の性格が深く関わるのだろう。


ヲタの場合、あるいはネット民の場合「アイロニカルに没入する」といわれる。すなわち、「(すべてが既出で相対化されてしまった現在、すべての考えや志向は既出なものであるため)本気で熱中・没入するのではなく斜に構えて没入する」ということ。斜に構えつつも、あるいは、それはネタだと相対化しつつも没入してるという点ではベタだったりする。


北田の指摘では、すくなくともヲタやネット民に限っては、その態度・心理過程のアクセントはアイロニカルであることだったようにおもうけど、アイロニカル≠斜に構えるということはあくまで後付的なもので、本来はその一歩手前の「すべてが相対化されてしまってる」とメタするところがポイントのように想う。

ギデンズが「近代とは再帰的なのだ」というときそれは「様式を踏襲(再生産)していく」という現象をとらえたものだっただろうけど、この「様式を踏襲する」というところにも「わかっていつつも」という前置詞がつくようにおもう。

「わかっていつつも」「アルゴリズム(様式)的に」「踏襲(レミングス)」していく。


「わかっていつつも」という部分にメタ部分での理解があるわけだけど、この「メタ」とはどういうことかというと抽象化ということだろう。


前近代ではメタ≠抽象化の対象は「自然」という外部であったのだけれど、対象とスべき「自然」があらかたhackされるとその対象は人類そのものへと向かっていった。

すなわち、人類は自らを抽象化・メタ的なものの対象として再生産を早めていった。

資本主義にしても広くはそういったものだし、数学にしてもそういったものだろうけど。


抽象化の過程が前近代に比べて速くなった、あるいは、より重層的になったのが近代ということなのだと想う。


その過程で、複雑化した抽象化の網を実生活に応用するときには単純化→操作的になるわけだけど、それがゆえに背景がわからない生活人からするとその踏襲において疎外が感じられるようになるのだろう。


いわゆる分裂病というのはおそらくこういった過程で生じていったもののように思える。なので、中井は「近代とは何か」≠「ヨーロッパとは何か」ということを主題としていった。



中井氏の本は30~40冊もっていると思う。なかでも一冊ということになれば、「西欧精神医学背景史」かなと思う http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20151105/1446737374


まあこの辺もまだぼんやりとざっくりとしたものなので自分的にももっと研鑽を積んでいこうと思うけど。


あと、急に寒くなったので今季初のヒートテックアンダーを着用。そろそろ遠出の時は冬装備かなあ明日の朝とかは特に、とか想いつつハクキンカイロ気になる。


(引用) 

もしも、医療(看護)というものが「穴居家族の母親が、小川の水で病気の子供の頭を冷やしたり、あるいは戦争で置き去りにされた負傷者のわきに一握りの食べ物を置いた、はるか遠い過去に起源がある」(オスラーの講演の中の言葉(梶井昭『医学の歴史』講談社学術文庫より・・ここにも「森の中での医学のはじまり」という章がある。))のだとしたら、医療は本来、母性的なものである。しかし医療が職業行為として成立してくると職業というもの自体が男のもの父性的なものであったので、医療そのものが父性的で権威的なものとなっていった。しかし、起源からはもともと母性的である医療の部分が看護として分かれていった、というのが非常に大まかな医療の歴史ではないかと思う。

 女性であっても医師はどこか父性的であることは避けられないし,男性であっても看護師はどこか母性的たらざるをえないところがあると思う。看護の仕事をしているひとは医師とは対等とはどうしても思えず、その下で働くという感覚が拭えないという話を多くきく。母性が父性に従属するなどといったら(そもそも父性や母性という言葉自体が)フェミニズムの陣営の逆鱗にふれることは承知しているが、進化の歴史の上に生きているわれわれは、意識ではそれを拭おうとしても意識しないところではそれを拭いきれないところが、どうしても残ってしまうのだと思う。

 中井氏の臨床への姿勢は、臨床の行為においてあたうる限り「父性的」な色を消していくというものだと思う。だからこそ「看護のための精神医学」のような本が書ける。「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。」 狭い意味ので医療のできることは限られている。しかし患者と一緒にいることだけはいつでもできる。中井氏のいっていることは患者の上にいる臨床ではなく、患者とともにいる臨床ということではないかと思う。


(引用終わり)


最相葉月、2014、「セラピスト」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/430223693.html

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