スコップと珈琲とおはぎ /  深呼吸の仕方 / 感情-禅-美-人の生ということ / Pieces of Mind

日記をしてからスコップと珈琲とおはぎを買いに。きょうはコーヒー屋のセールの日なので数カ月分を買っておきたいしなにより今日の夜から明日の朝にかけてスコップがいるから。

珈琲屋はたまのセールと昼時間ということで珍しく混雑。テンパって釣り銭を間違うおばちゃんに教える(多めに出してたので)。珈琲豆にスペシャルティが出ていて価格も他とそれほど変わらないのでそれも購入。メインは濃いめのブレンドを400gほど。小さめのコーヒープレスも1000円で出てたのでこの機会に。

スコップは1300円から2000円ぐらいのものなのだなと知る。中ぐらいの大きさのもののほうが人気なようで高い。けっきょく一番安くて足をかけて掘れるものを購入。バックパックから柄をネギのようにはみ出させつつ安全ピンでジッパーを止める。


おはぎはバイト先の人のおみやげと自分用に。昼は特に食べない習慣なのでこのぐらいで良い。なんとなく彼岸のものということでネコを後ろにしててもうしろめたさもないし。ここは変わり種のおはぎがあって特にしそがお気に入り。甘いのとすっぱいの?てかんじだけど良く出来てる。あとは雑穀と玄米とか。ずんだとかもある。


帰ってまたねこをなでて仲良くしてるヲクサンに以前送ってもらったネコ繭を探し出す。

前の年の冬につくって送ってもらって、そのときはまだゴワゴワだったのでネコもびみょーな使い方だった / 暑くなってきたのでどこかにしまっていたのだけど忘れていた。たしかにこれならネコの舟としてはちょうどよいように思う。

(それにしてもわざわざ作って送ってくれたものを「もうさむいから一緒に包んで埋めて」といってくれるヲクさんに感謝)



おはぎをたべてまた少し深呼吸。涙が流れるたび、あるいは感情が乱れるたびに深呼吸をしてる。動悸などで身体が不調なときにするのと同じく心が不調なときにも深呼吸をしていると良いように思う。あとは水飲んだり。


「深く呼吸することが必要なのだな」ということで座禅を思い出す。以前にすこし呼吸についててほどきされたのもあってそれに沿って深く吸う。

尻から地面の気を吸い上げるように吸い込んで、背骨を気が螺旋状に上がってるのをイメージしつつ上げていく。喉→頭頂部まで限界に達するまでもってきて止める。止めた気がうねりとなってるのをイメージし操作しつつ、吐きつつ下げる。下げるときも螺旋のイメージで。各チャクラのポイントをイメージしつつ。


できてるのかどうかわからないけどそれなりに落ち着く。本式の座禅も教わっとけばよかったかなと思うこともあるけど、日本の大部分の座禅は独特の形式で格式がついたものでいらないものが多そう。まあ結跏趺坐のやり方ぐらいは参考になるのだろうけど。

左膝を痛めてるのであまり両足結跏せずせいぜい半跏趺坐(いわゆる胡座(あぐら)ぐらいなのだけどやってみるとできるものだな結跏趺坐。

「そうだろうそうだろう。ようやく思い出したかね?」と目の前のかっぱくんに言われてる気になる

(しっかり結跏趺坐してる)


結跏趺坐と呼吸というのはもともとyogaの一種のようでこういう状態のときにはyogaなんかも良いのだろうなと思う。以前極端に上がったときにもyoga的なことをやって気持ちよかったのだけど今回は極端に下がりつつそれなりに効きそう。仏教における解脱の過程で世俗の通常の感情、ことわりなどを捨て去るため極端な悲しみなどを超えることを要するからだろう。あるいは、最初にそれをはじめた人はそれに対処するためにそういう方法を編み出していったのかもしれない。


禅とはもともとインドの、仏教の修行過程の一つで dhyāna(梵)という。

禅定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A

なのでいわゆる座禅のそれ、日本的なミニマリズム的な禅ともまたちょっと違う。

禅定の実践とは、通常時にひとつの対象に定まっていない心を、ひとつの対象に完全に集中することである[1]。そうして1つの対象に定まったとき、三昧と呼ばれる[1]。この完成によって、禅定波羅蜜多(ぜんじょうはらみた)が成し遂げられる[1]。静慮波羅蜜と呼ばれることも多く、時には禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)と訳される。
禅定の完成には止観を発達させる必要があり、止は心の移ろいを鎮める平静さ、観はものごとが永遠ではなく、苦であり、実体性がない無我であることを洞察する


知識としては知っていても実際に今回のような悲しみ - 喪失があるとそれを実践-実感できるのか?という感じになる。あるいは自分がまだそれを知ってなかったということ。



いま読んでる禅とオートバイ修理技術でもパイドロス≠パーシグが禅について語っている。以上の知識を前提に


すこし勘違いされている 、あるいは都合の良いとこだけ読まれてるむきもあるように思うのだけどこの本のポイントはクオリティというところにある。クオリティとはラテン語源的にはクオリアと同義で、クオリアとは最近だと茂木健一郎さんがうんたらいいつつでてきて売れっ子になってたんなるブロッコリーになった後はそんなに言われなくなったけどかんたんにいえば「論理的な「知」「識」以前、以外で人が理解・納得をする価値」というところだろうか。。


まあこれだと自分でもわかりにくいのでもうちょっと別の言葉で表していくと、人がなにかを理解する時、特に美的なものを心地よいと思ったりするときにそれは論理的な決まり以前に決定されている。なにか、論理以前の根っこのようなものがあってそれが人のうまれたときから、あるいは、人が人となる過程で備わっていく。もうちょっと簡単に言うと、プログラムやロボットではどうしても表せない部分、それがこの部分に当たる。

プラトンはそれをイデアと呼びアリストテレスはそれをエイドス(形相)と呼んだ。

「論理以前に蓋然的に人々の間で共有されている価値」

なにかをおいしいと感じることに論理的な理由が要らないように

なにかをかなしいとかんじることに論理的な理由が要らないように

(ロボットはおいしいとかかなしいとか感じることができない。プログラムすればそういう解答-つなぎはできるようになるだろうけど、それは実感としての「おいしい」「かなしい」ということではない。すくなくとも現時点では)


禅とオートバイ修理技術の本義は、パーシグというアスペルガー気味の男が「人としての価値」を実感していくところにある。


パーシグはもともと論理的には強い天才肌の男だったがアスペルガーにありがちの自我の強さと人付き合いでの紛争などが重なって壊れた。というか、特にクオリティという問題について真剣に悩み始めてから。

ソレ以外のことだったら論理学なんかで確実に「定義」していけばよかったのだけど、価値-質ということについては論理では定義ができなかった。

それで壊れて人間生活が送れなくなったパーシグは自ら電極手術をうけることでその性格をあらためることにした。そして過去の自分は失われた。記憶とともに。

パーシグは失われた自分、記憶が失われる前の自分のことをプラトンの宿敵のソフィストになぞらえて「パイドロス」と呼ぶ。


その後、生まれ変わったパーシグはしばらくして息子たちとオートバイでの長い旅に出る。この本はその道々での出来事について、あるいはそこからの「クオリティ-クオリア」に結びつく思考についての断片的な思考の集積となる。ちなみに息子もアスペ、あるいは自閉気味。だけどパーシグはこの時点だと性格-執着的にはふつーのひとになってる。


かつてアスペ気味だった男が自閉-アスペ気味の息子に論理では割り切れない価値について体現させ、身をもって教えていくエッセイ。


オートバイがこわれたら「修理に出せば良い」という息子に「バイクを直すことで得られるものもあるのだ」と教えようとするパーシグ。バイクの修理は料理とか山登りとか、あるいはジョギングに置き換えても良い。つまり「人生において無駄、あるいはアウトソーシングすれば足りると思われるようなもの」。

まだパーシグは語っていないけど、そういうものを突き詰めればけっきょく人の生そのものが「無駄」「無意味」ということになる。ネコと暮らすことやなにかに愛情をもつことも。


論理的には生の意味は割り切れない / 見いだせない


でも、

論理以外のところ、あるいはソレ以外と論理も含めたところに人の生はある

のだ


現象学では特に認知/納得におけるその過程/意味を解こうとし、以前に言ったウルフの「意識の流れ」という手法はこれに沿う。

あるいは美学 ← 生の哲学と呼ばれる分野も。


美術評論なんかで「なぜこの作品に価値があるか?」というのを説く時、この部分を理解していないものは単なるクズの虚仮威しとなる。

(自分はできれば生の哲学-実存哲学→マルクス→ヘーゲル→ルカーチからそれを完成させたい)


そういえば杉本博司の展示を写美でやっていて行きたく思っている。杉本さんはもともとマルキストでデュシャン信奉者ということで。展示の内容自体はすでに過去の美術手帖での特集のものを持っているのだけど(以前に外国でやったもの)、実際に目の前に見てなにか感じるもの / 文字で理解するのとは違ったものが得られるのか体験してみたい。デュシャンのそれはまだ理解してないし新表現主義的なゲンダイビジュツ虚仮威しなとこ以外でほんとに価値-美があるのか?という感じではあるのだけど。


ユニットバスの暗闇風呂でうっすらと見える便器を見つつそんなことをおもった。「ああ、、これで時間ができたのであれもいける、のだな」と。うれしくない時間のでき方だけど。



朝にジョギングしつつパーシグと「クリード」におけるロッキーの言葉を思い出す。

「一歩ずつ、一発ずつ、だ」

「山登りはたんに山を登る、ということではない、自分の身体との対話なんだ。身体の調子が悪い時、どこが悪いときにはそれを補うようにバランスや歩く速度、呼吸を調整しつつ登る。悪ければ悪いなりのぼり方があるし、そこで自分の中の自分や山と対話できてるかどうかが大切なんだよ(記録とかそういうのよりも)」

同じことがジョギングにも言える。あるいは人生にも言えるのかもしれない。



悪ければ悪いなりの、落ち込んでるなら落ち込んでるときのやり方がある。

自分の半身が削がれたのなら、残った半身で歩けるようなバランスを見出していけば良い。

一歩ずつ、一発ずつ、一呼吸ずつ

その一度一度が「できた」と思えれば良い


もう明けかけの空に登った太陽に向かって走りつつそんなことをおもった

ジョギングでは2-3km+4-5kmgだから6-7kmぐらい走った。「汗ですべての水分出てしまえば涙もあまり流れなくなる」という思いで。当然汗をかいても涙は出るしそこまで無理して走ったわけではないけど。いつもは2-3kmで済ませるコンディションのところを次の一歩をふみだしつつ「走るのだな」とおもった。

散歩の犬と遊ぶ人たちの様子をいつもより朗らかに眺めてしまう自分に気づく。そして、それが妬みや喪失の悲しみにつながらないことにすこし安堵する。小さな子供とお父さんとか、お年寄りとか。事故とか病に合わないと良いなと思う。



そういえば出かけるときにはひこうき雲が出ていた


走りつつAmazonミュージックでtuneしていた野崎良太の楽曲と対話し気持ちのよすがを得る

これだけではなく特にアルバム「Piece of Mind」には救われてあの日からずっとかけてる。というか野崎良太tuneにして「bird of passage」も含めて。「Life Syncopation」がないのが残念だけどこちらは以前に購入してipod nanoにはいってる(「bird of passage」が出てるのは知らなかった)。

野崎良太はJazztronikということでクラブ系の音楽がメインな印象だけどピアノの楽曲が良い。Jazztronik名義の「七色」なんかでもピアノが心地よいクラブ・ジャズになってたけど。

ちょっと見てみたらもともとは作曲科にかよっていてピアノの楽曲なんかは映画音楽を意識してということぽい。

Jazztronikこと野崎良太の素顔 - インタビュー : CINRA.NET http://www.cinra.net/interview/2011/06/03/000000


本格的なクラシック音楽なひとからみると軽いのかもだけど自分にはこのぐらいのキャッチーとかポップなほうがちょうどよい。映画音楽ぽいアルバムもJazztronik名義で仕上げたのだな。


「Pieces of Mind」で対話したり代言された思い、言葉については忘れてしまったけれど生半な励ましより癒された。癒されたという言葉もいまでは軽く聞こえるけど。

言葉にすると軽くなってしまったりちょっと違うものになってしまう難しさがあるものも音楽とか、非言語的表現で体現できたりするのだな。それは美術-芸術的な役割といえるのだろう。



そんなことをいいつつ自分は言葉に頼るしかないけれど。


朝にねこについての日記を書いた

自分をTuningするための日記が主だったりするしその前の日記もそうだったけど

そこで苦しいとかかなしいとかいってること自体がねこを送る際に失礼というか、、自分のことしか考えてないように思えて。

「(じゃあルルとの日々はかなしいものだったのですか?)」

という聲に楽しいことを思おうとした。あるいはたのしくなくてもいいから自分の悲しみ以外の、このコの生の軌跡それ自体をしっかりと刻もうとおもった。


それでもまだ不十分なようにも思えたけど。最後にカメラロールから写真を抜き出しつつまた涙が出た。たぶんいま眺めてもまた涙がでる。


「もがり」の日記の方は単なる自己満足かというとそういうことでもなくてあれではじめて「かなしい」ということがどういうことか自分なりに理解できた。「かなしい」あるいは「かなしみ」一般ということでもないだろうけどこういうときの「かなしみ」について。

まず「喪失(miss)」「欠ける」があって、そのどうしようもない欠けたところを癒やすため、あるいは、補うために涙が血や潤滑液のようにながれ間を埋めようとする。

だから、まだ欠けた部分が整ってない間は涙が出るのは仕方がないのだろう。血と同じで。


このような形で欠いたこころ全体の修復過程、感情の構成を「かなしみ」という。

ただしく悲しんでカタルシスをしつつ、欠けたものに代わるのにかを構築することでその悲しみの過程は完成されバランスが整う。


代わる何かが用意されないのなら欠けたバランスのままでやっていく方法が見出されていくのだろう。禅のように。



いまはねこの瞳がすこしずつ濁っていくのもかなしい。。


「どれだけ保つのだろう?(このあとどのようにするのが適切なのだろうか)」「目を見開いて逝ったのは苦しかったからだろうか」「目の濁りはなんとかできないだろうか?」

そんなことをおもってすこしググる。

死後変化 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E5%A4%89%E5%8C%96

2. 死体現象(死後変化 Postmortem changes) http://www.med.nagoya-cu.ac.jp/legal.dir/lectures/newest/node3.html

死後硬直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E7%A1%AC%E7%9B%B4

死んだ時に目が開いたまま死んでいる人と、眠ったように目を閉じて死... - Yahoo!知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q144141214


死後硬直が生じるのは単なる化学変化ということ。酸素が経たれて嫌気的代謝しか生じなくなり乳酸がたまって結果的に硬直する。代謝という食事。それも食い尽くされると次の酵素が筋肉自体を分解し始める。いわゆる「緩解」。

死後硬直から明けた次の日、ねこがぐんにゃりしだしたのでどうしたのか?とおもっていたけど筋肉が食い尽くされだしているのだな。。そうするともうこの身体では生き返れないのかとアホな事を思ってしまう(脳死段階でむりだろうけど)。食肉ではこの段階を「熟成」というのだそうな。腐敗の一歩手前、あるいは腐敗のコントロール。


死体の体表から水分が蒸発するため,特に角膜・陰嚢・口唇等で顕著に現れる。 死後一見爪や毛髪が伸びたように見えることがあるというが, これは皮膚の乾燥によるとされる。角膜の混濁も主として乾燥によるもので, 特に開眼していると速く進む。夏季ならば1日で瞳孔の透見が不能になる。


死んだ時に目が開いたまま死んでいる人と、眠ったように目を閉じて死んでいる人、死にかたに違いはあるのでしょうか?目を開けたまま死んでいた人は、死んだ時に苦しみながら死んだのでしょうか?
全く関係ありません。一般的には死亡すると死後硬直が始まります。その前までに目を閉じさせていれば閉じたままになるのですが代謝が無くなる代わりに水分が少しづつ飛びますのでそれでも薄目になる場合もあります。それまでには多分ドライアイスなどで防腐処置をするのでその段階で目が閉じていればそのままになるはずです。
気温の高い夏場、暖房のきいた部屋、湿度の高いところ等での安置は腐敗の進行を早めます。腐敗の進行を遅らせるために、人間の場合はドライアイスを使います。しかし日常生活の中で、ドライアイスを入手することは困難です。変わりにご自宅の冷凍庫に入っているアイスノンを使います。アイスノンを乾いた薄地のタオルに包み、腐敗の進行の早い頭部と腹部に当ててください。なるべくご遺体に水分を染み込ませないで下さい、腐敗の進行を早めます。
身体等が汚れていて拭いてあげる場合も、かたく絞ったタオル等で、さっと拭いて身を清めてあげて下さい。そして出来るだけ涼しい部屋で安置してあげて下さい。


ぐぐったときに閉じないねこの目をして「かわいそうだから接着剤でくっつけて」みたいなのをみかけて阿呆かそんなの飼い主のエゴそのものじゃないか。。(逝く/逝ったねこにそんなの関係ないのに)とおもったのだけど自分も保冷剤とか当ててるので似たようなものなのかなと思う。あったかくしておいてやりたいのに。。

まあでも看病中にも当てていたし、、濁ってズレていく瞳もこわい/忍びないし。。





スコップを買いに行くときに「もがりの森」も借りてきた。

以前にも見たけどいまみるとまた違うのかとおもって。あるいはいまの心理状態ではだいたいのものがくだらなく見える / すこしでもこのアンバランスを調整できる素材はないかと思って。


人に会って話しをするのも手かとおもって昨日のうちに少し誘った。不謹慎かと思ったけどそうしといたほうが自分のこころ的にも良いかと思って。まあ結果的にダメだったけど。たぶん急で予定が合わずに。


というか、それ自体は「しといたほうがよいかとおもって」やった程度のものなので、ほんとは海とか行くほうが良いのかもしれない。

この夏はずっと海に行きたいと思いつつ時間がとれなかった。

それがようやくできるということ。

帰る時間を気にする必要もなく。



そのこと自体もさびしくかなしいのだけど。



そして、夜の海をいつまでも眺めるという逃避をつうじて、夜の海に吸い込まれていきそうにも思うのだけど。そこまでロマンチスト / ナルシストでもないかなともおもう。(まあでもねこのしんぱいがなくなった現在、どっちでもよいといえばどっちでもよいのだけど)



とりあえず日記も終えてそれなりに現状の気持ちを吐き出して整理したので作業しよう。「作業がんばった」ということが自分なりのこころの平衡にもつながるだろうから















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?