アンチクライスト(仮)


きょうはバイト効率がそれほどよくなくていつもより1、2時間遅く帰る。それでもひところのソレよりもだいぶこなれたのだけど。17時には帰ってたし。


水曜日までにDVDを見て返さないといけないのに一本も見てなくて「きょうは一本みとかないとなあ。。夕方から見るかあ」と決めてたので帰って一息ついて夕飯食べてから早速見る。


最初からずーっと陰鬱でつらい。。つらいので途中でDVDをとめて休憩を入れた。途中つっても残り30分ぐらいだったけど。


そのあと一気に見て、なんとなく輪郭はわかった。



「これは、すべて理解するのは初見では無理だなあ。。すくなくともトリアーのそれまでの作品傾向とタルコフスキーのそれを追わないと」とか映画の最後の『タルコフスキーに捧ぐ』クレジットをみつつ思う。んでもまあそういった『正しい理解』とは別の部分の最初の自分の印象とか感想は残して置きたかったのでできるだけ他人様のナゾトキみたいなのは見ないように印象だけ残そうと思うも「beggarsてなんや?そんなのキリスト教絡みであったっけ?」「狐とカラスと鹿ってそういうのの象徴なのキリスト教的に?」てとこが気になったのでなんかないかとおもってぐぐってしまった。。


アンチクライスト(ネタバレ)|三角絞めでつかまえて http://ameblo.jp/kamiyamaz/entry-10825352456.html


さーべる倶楽部: 「アンチクライスト」、「エリックを探して」、「しあわせの雨傘」 http://sabreclub4.blogspot.jp/2010/11/blog-post_26.html


人生論的映画評論・続: アンチクライスト(‘09)      ラース・フォン・トリアー http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/09.html


まあでも見た先も自分の印象とか直観にかなうようなあれでもなかったので特に影響受けるわけでもなく良いのだけど(まあかなうとかかなわないとかでもないだろが)。


最初の方の印象は「赤ん坊が死んだことによる自責 → 鬱状態で統合失調的になっていわゆるメンヘラ的なヒステリー発症して、ってとこかなあ。。そういう映画に思われるだろうな」とかおもったのだけど実際リンク先みるとそう思ってる人もいたみたい(>ミザリーみたい)。

まあ出来事面だけ追うとそれが正しいのだろうし、そういう映画って感じなんだけど。


どこでそう思ったのか忘れたけど、自分の印象としては「赤ん坊が死んだことによって女がメンヘラってヒステリーになった」というよりは「赤ん坊が死んだことはきっかけ、あるいは赤ん坊が死ぬところ、ベランダから落ちるところを女は見送っていた」 → 「女のヒステリックな暴力性、暴力的なセックス、本能(nature)ともいえるようなそれの発露は、男がそれまで『常識』のなかで妻を地味に抑圧してきたことへの抵抗であり発露だったのではないか?」てことだった。

キリスト教的なものは中世における常識-文明と等号されるだろうから、「そういった常識や文明のなかで抑圧されてきたもの」「たとえば人の中のnature」というのが主題となる。なので特にアンチキリスト→反キリストってことでもないし、サタンがどうとかが主題ってわけでもないのだろう。


女-妻が男によって地味に抑圧されてことを示す箇所は「あなたはわたしの論文を否定したわね。とくにはっきりとではないけど」みたいなセリフにも表れていた。そして、臨床心理学者に頼ろうとする妻をセラピストである夫が引き離し自らのセラピーに頼らせるところ。「フロイトは死んだ、ってね」というセリフ。


この映画の主題、あるいは「ニンフォマニアック」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にも通じる主題として女の性-natureの解放的なものがあるのだろうけど、それが直接に悪-悪魔であるかというとびみょーなとこで、、でも性-セックスというのは人のふだんの生活-常識からすると混沌であり常識の逸脱ということになる。

しかし、世間-男たちはふだんはとりすました常識を要求してくるくせに夜の女には性を求める。そのダブルスタード。


そういったものとはべつに女のnatureな欲として単純にセックスしたいというのもある。


そういったリビドーとヒステリー的なものはフロイトのテーマだったのだろうけど、一般的にフロイトの性-社会観からは女は除外されたものとされる。



まあだからといって女を否定しているというわけでもなく、たんにその時代の目の前の問題と常識的に男のリビドーうんたら考えるほうが先立ったのかなとかも思うのだけど(あと、急激な社会変動のなかで情緒不安定になる人には性による発散が端的に良かったとかそういう)。



映画の話に戻ると、さっきもいったようにこの映画は抑圧された女と解放ということをテーマになってるように思うのだけど、その解放のあり方があまりに急激でヒステリック(かつ自我の統合が失調した形)だったためにあんなに攻撃的でグロく発露してしまったのかなあとか思った。これがもうちょっとゆるくなったのが「ニンフォマニアック」だったのだろう。まああれも過激といえば過激だし病気といえば病気なんだけど。


なので、最後のシーン、悪魔と化した妻から命からがら逃げ出した夫が顔のない女達に囲まれる、というのはそういった女たち、抑圧された女たちに常識的な男が囲まれてる-追いつめられてる、てことだったのかなて印象だった。あるいは単に女というバケモノ(女たちも知らない女)に囲まれてるってことだったのかもだけど。


女の自虐欲求、「わたしを殴って!」というのは罪にたいする救済ということもあるのかもだけど、緩やかな常識に洗脳された膜のようなリアリティの中で唯一そういった痛みのみがリアルを感じさせるところもあるのかなとか。まあああいったものを求める人達はそんなあたまで考えてもとめるわけではなくたんに「なんか殴って欲しくなるし、叩かれると気持ちいいから」てことなのだろけど。



映画全体の陰鬱さ、特に前半部の印象は「もがりの森」(河瀨直美)を想わせたし、音楽的にはマトリョーシカ「sink into the sin」を思った。



そういった意味で河瀬直美の主題?「女の性(さが)」「生と死」にも通じるところがある。


「鹿とカラスなどがメランコリーに女の本能を誘う」というモティーフで画像いけばなしたことがあったようにおもうけど見つからず。別のマガジンにまとめたのかもしれない。このへんはわりと近いようにもおもうけど。


ちなみに鹿、カラス、狐のほかに熊なんかも森-異界からの使者とされるなそういや(うさぎなんかも)。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?