最近見た映画(「わたしはダニエル・ブレイク」、「トレインスポッティング2」、「光」)

なんとなく間が空いたので日記。さいきんは日記をつける時間帯に悩むのだけど朝のMP残ってるときに時間があいたらつけるのとかちょうどよいのかもしれない。読書ノルマが進んでるときとか、今日みたいな休みの日の朝とか。一日の終りだとどうも疲れていて酒と食事でダラダラしたいし。ダラダラするときはだいたいテレビで録画消化とかNetflixやアマゾンプライムビデオ見つつアマゾンプライムフォトにアップロードする用の画像収拾してるのだけど。

昨日ようやく借りてきたものを消化した。DVD3本と漫画10冊。漫画の方はちょこちょこ読めるのでそんなに苦でもないのだけど映画のDVDはなんか億劫になる。2時間ぐらい拘束されるかと思うと。「読書すすんでないのになあ。。」とか思ってしまう。まあそうはいっても見始めたらそんなに苦でもないし、話を途中で止めて次の日に見るのとか平気なのだけど。

今回、借りてきた作品もそんな感じで休み休み見た。2本は。残りの一本は一気に見さされた。「私はダニエル・ブレイク」(ケン・ローチ)、「トレインスポッティング2」、そして「光」(河瀨直美)。


「私はダニエル・ブレイク」は公開されたときTwitterなんかでもちょこちょこ話題になっていた。ケン・ローチ的作品でありブレイディみかこ的な作品。両方共に親しんでいればそれほど驚きはない。ただ、そういうのに親しんでない人的には現在のイギリスの下・中流層の情況を知るのに良いのかもしれない。自分的には少し前までブレイディみかこの著書を読んでいたのでその流れで。ケン・ローチ作品も以前からちょこちょこ見ている。作品的には「天使の分け前」なんかのほうが好きだったりする。「トレインスポッティング」にも通じるけど。「最初にチャンスがあって…」。


「私はダニエル・ブレイク」で新しかったところはイギリスの社会保障的な支援現場・手続き過程の実際が見られたところ。要は日本のハローワークや職業支援のそれを思い浮かべれば良く、両方とも見事に機能してない。いわゆる「お役所仕事」的な対応で目の前の不幸をなおざりに処理されていく人々。主人公であるダニエル・ブレイクは心臓疾患でドクターストップがかかって大工を引退した老人だが、今回障害給付金が途切れたので手続きに役所に手続きに訪れたらたらいまわし的対応でひきずり回され、怒り、消耗し、亡くなっていった。

「わたしは年金番号○○○○ではない。わたしはダニエル・ブレイクだ。誇りと尊厳のある一人の人間だ。そのように接してほしい」

憤懣やる方なくなったダニエル・ブレイクが役所の壁にこのようにスプレーして主張した場面がクライマックスだったように思う。あるいは最後の手紙。


「トレインスポッティング」もそういったイギリスの低所得者層の情況を基本にした話ながら若者らしいスピード感で情況を駆け抜けていく。セックス、ドラッグ、音楽。というか、ドラッグ、ドラッグ、ドラッグ。

本来ならクソみたいなイギリスの周縁部の若者の情況が「おしゃれ」に編集され、公開当時人気を博した。

本作はそれから20年後の物語。最後に仲間たちとせしめた金を半ば独り占めして逃亡したレントンと仲間たちの後日譚。

そういった意味で特に真新しさも物語的、ビジュアル的衝撃もなかった。見る側がそのような印象を持つのをあらかじめ先取りしてか、映画ではところどころ主人公たちの子供時代の映像が挿入されていた。彼らは「あの頃」を懐かしみながら「なんでこんなになっちまったんだろうなあ。。」といいつつドラッグにふける。「もういい大人なんだからこんなのやめなきゃあな」と言いつつ。その姿に、歳を重ねても抜けられないイギリス低所得者層のクソみたいな現実の連鎖をすこし思ったけど、最後に部屋でお気に入りの音楽を流してひとり踊るレントンの姿にもうすこし明るい希望のようなものを垣間見た。それは「希望」といえるものでもないかもだけど。「俺達のロックンロールはまだつづいてくんだぜ?(もうおっさんだけどよ)」というような。それはジャンキーで人生潰れてぐだぐだになったおっさんたちの不幸というより、年をとってもロックンロールや酒を続けるどうしようもないじじぃたちというような感じで。

最近は「ブリジットジョーンズの日記」や「スターウォーズ」なんかも回顧厨的なとこがあるように想われるけど、それらのマンネリを「まあいいじゃん」と肯定する感じ。



「光」は緊張を持って見られた。

序盤は(こういってはなんだけど)地味でとっつきにくい雰囲気。そうはいっても映画用の音声解説の現場ということでドキュメンタリー的な興味のあるところではあるのだけど。並行して視力が段々とうしなわれていく人の情況をとらえる。

序盤の方では物語や状況設定にtuneしようとしてか他人事ともいえる視点でみている自分が次第に引き込まれていったのはどの当たりからだったか?

物語の終盤、主人公女性の慟哭ともいえるような声、あるいは主人公男性の涙と怒り、悲しみが表れた場面からだったように思える。

河瀬作品の系譜的に主人公の女性は素人っぽさを残した台詞回しで、それが最初は感情移入を妨げる。映画的、ドラマ的なものへの感情移入。ドキュメンタリーに見てしまうといったのはそういうことなのだけど。河瀬作品をとっつきにくく思うひとたちの引っ掛かりはそのへんなのかなと思ったりもする。

でも、それは逆にいうとほんとにリアルな生活の場での声やコミュニケーションの仕方といえる。それが慟哭や怒りなどの感情を伴って表出されたとき、通常の演技のドラマよりもリアリティが出て物語への没入も加速されるのではないか?

後付だけどそのようなことをいま思った。


そういう俯瞰的、分析的な視点は置いておいてふたたび物語に戻ろう。


主人公の男性の怒り、諦観、あるいはその受容というのはそのまま音声解説の現場で音声ナレーションが試行錯誤されていた映画の内容とリンクし、並行していく。

介護する妻を失い、生活の希望すべてを失った男の最期。視力を失い、カメラという自らの命よりも大事なものを手放すことにした天才カメラマン。

二人にとっての「光」とは、そのまま光-視力でもあり、希望の象徴的なものでもあり、現在を生きるためのよすがのように思えた。


「生きる意志…希望…とひとことにいっていいのだろうか…? 彼は生きることを決意したのではなく、たんに目の前の陽の光の中に溶けていったのではないか…」


最後の場面につけられた音声解説の台本に対して監督が言ったそのようなことばがそのまま主人公たちの最後の場面につながっていく。

最後と最初の海で、夕焼けの熱をまぶたに感じながら、雅哉はカメラを海に放る。命よりも大事なカメラを。

その理由は、おそらく言葉では説明しがたいことだったのだろうけど、彼があらたな生活に踏み出すための通過儀礼として必要なものだった。過去の自分を殺し、これからの自分を受け容れるための。それは希望に満ちたものではないだろうけど、絶望にとどまるほどのものでもない。

そして彼は、それまで手に持つことのなかった、白杖を受け入れ歩み始める。あるいはあらたな伴侶を得て。


雅哉のほうに焦点してしまったけれど美佐子(もう一人の主人公)のほうでも「光」を感じた場面があった。

痴呆を患った母が失踪し、捜索する場面。もがりの森を想わせるような…。老病死。そして、もがりの森で置かれていた答えのようなものがそこに示されていた。お日(ひい)様の中から現れる失踪した亭主の幻影。

いや、答えとしては同じなのかもしれない。ことばにすれば。でも、人の感じ方、受け取り方というのは情況や環境によって変わってくるのだろう。


大きな悲しみや大きな喜びに出逢ったとき、人はしばらくその感情に囚われてそのことばかりを考える。しかし、その時点では生活の全てで、始終そのことばかり考えていたようなことも、時が経つにつれて段々と考える時間が短くなっていく。

それは薄情ということではなく、言葉では説明しきれないものが、自分の中に降りていくということなのだろう。

気分や情況に流されるということではなくて、

人はそのような実感をあるいは奇蹟と呼ぶのだろう。






























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