精選女の一生


広島県呉市(呉市二河小学校)、広島県江田島(従道小学校(海軍兵学校内))、愛知県豊川市(豊橋高等女学校(現愛知県立豊橋東高校))、広島県賀茂郡西条町(現東広島市)などで育つ[1][2]。賀茂高等女学校(現広島県立賀茂高校)在籍時の1945年8月末から原爆投下後の広島市に救援隊として入り、その惨状に強い衝撃を受ける。この時見た被爆地の悲惨な光景が文学的原点となった[2]。終戦後、岩国高等女学校(現山口県立岩国高校)、新潟高等女学校(現新潟県立新潟中央高校)を経て津田塾大学学芸学部英文学科卒業[1]。
夫の赴任先・アラスカで本格的に執筆を始め、1968年、アメリカの市民生活を描いたデビュー作『三匹の蟹』で、群像新人文学賞・芥川賞を受賞した。


新しさに関しては小池が推賞する大庭みな子の「幸福な夫婦」には驚く。“幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である”、なぜなら“結婚と離婚と再婚が、大変簡単にできる世の中でも一人の男と、あるいは女とずっと結婚していたいと思うような夫婦が幸せ”だからである。“フリーセックスが日常化した状態でも、同棲していたいと思うような男女は幸せなのである”と。大庭が数10年前、旧態依然とした結婚意識が根強かった時代に書いたものだ。このラディカルさには驚く。


フェミニズムの思考だと究極的なモデルだとどうしても「女性の自立」「結婚に縛られない」「男女同権」などが前景化し、そこでの語調がつよくなってしまう。

でも、いくら理論とか論理的に明晰に論じても、そこで結論が出ていても、現実に日本社会において女を生きるということ、誰かと結婚なりなんなりして長い付き合いをしていくことと理知や論理の世界とは違う。理知があたまでっかちでまるで役に立たない屁理屈ということでもないんだけど、現実に日本社会で生きる、世間を受け容れて生きるというのはそういうことだし。そういうことはフェミンズム/ジェンダーの研究者の女性も言っていた。


機能合理的な面というのはつまり岸田秀が端的にまとめたようなそれ

<人間は本能-性欲が壊れている>

<全的な自己が壊れた人間は喪われた半身(自己)を性行為に求める。個人に寄ってその手段が異なっているに過ぎない>

<全的な自己が壊れた人間の性欲の最初の段階は自己色情的、つまり本来自慰的なものである>

<その段階では女性も男性もなく、女性・男性などといった性別は自動的に形成されるものではない>

<そのため最初から幻想を持ってしか異性に対して性欲を抱けないし、幻想を元にして性行為に至る>

<それらの幻想と馴化を通じて人は男性・女性となっていく>


そういった娑婆-世間の圧力から逃れるためにサルトル-ボーヴォワールなんかはフリーセックスで結婚に縛られない付き合いを推奨したのだろうけど。それをそのまま生きるのはどうしても無理があったりする。もちろん、人それぞれだろうからそれでうまくいく家庭もあるだろうけど。


自分が今回読んだ随筆集でもそのあたり、サルトル-ボーヴォワール的な自由恋愛-付き合いが中心に意識されていて、それに対してそれでもなお結婚する場合どういったものがあるのか?どういった着地の仕方を皆さんしているのか?みたいな課題が通奏低音としてあったように思った。


それらで印象に残る言葉を残していたように感じられたのは女性たちだった。そこに自分の女性びいき的な偏向もあるのかもだけど、やはりこの面で強者として設定される男性はぼんやりしてしまうのだろう。フランス遊行が多い批評家なんかはそうでもなかったけど。


そういった課題、フェミニズムのガチガチの理想論だけでは超えられない課題を現実に生きている女性たちの声なき声のようなもの、生活の実感としての人生哲学や実践を著していくべきなんだろなあとこないだも話しながら思ったし、なんか頼まれちゃったんだけど。。「そのへんこそ元来の女性史としてのフェミニズムの方法だよなあ。。誰かやってんじゃないの?もう」とかおもったので発掘してみようと思いつつ、偶然出会った彼の随筆集(精選女性随筆集)はよさそうなのでとりあえず読んでいこうとおもふ。研究ではないのでファクトとかは薄いかもだけど。


「婚」のほうにも印象に残るエピソードがちらほらだったの図書館に返却する前になんだったらメモっとこう。



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