湘南行き、ほか

昨日のうちに海に行きたくなったので人を誘って鎌倉-湘南へ行った。さいきん自分ちから江ノ島がわりと気軽に行ける事に気づいてそれを試したくもあったので。結果的にそれは本当に簡単で「今後ちょくちょく来ようと思います」「来ればいいんだよ簡単だから」ということになった。うん、そうしよう。


11時半に現地集合な約束だったのでそのぐらいに江ノ島に着いて、少し海岸を歩く。いまごろ海の家を解体してる。未だ海の家出てたんだ。さすが海の家本場?の海の家は大きい。ちょっとした野外ステージみたい。

江ノ電で鎌倉へ。

鎌倉ではおみやげ通りをあるいて以前にあきらめた卵焼き屋を目指すも今回も人が並んでたのであきらめてさらに歩く。んでも歩いててなにげに気になった鎌倉野菜とカレーの店が気になったので「行ってみていい?」「行きましょう行きましょう」ということで行ってみたら当たりだった。さいきん野菜が好きになってるし、鎌倉野菜は興味があったし。野菜の方は基本的に簡単に素揚げにしてちょっとスパイスかけた程度で充分に甘くて美味しくて、カレーもちゃんと煮こまれいろんな味が感じられてよかった。場所的にはまめやの近くの細い通りにある「かん太くん」というとこ。看板を持って呼び込みしてる人がいた。


昼食もしてエネルギー充填したので昼すぎぐらいまで鶴岡八幡宮 → 建長寺と歩く。2つしか寺めぐってないけどそれなりに時間が経っていた。その後、そのまま由比ガ浜まで歩いて砂浜でビールほかしてダラダラ歩き始めた。


けっこう風のある日で波があってサーフィン日和ぽくサーファーたちの姿が目立った。ウェットスーツの光沢と黒光りがちょうどアシカの群れのように。波に揺られ沖を目指すアシカたち。

その様子をぼんやりとみつつ「気持ちよさそうだねえ」とかいいながらも潮風と残暑の光が十分に気持ちよくて、でも、こういった環境が身近にある人たちの幸福を思う。妬ましいとかでもなく素直に羨ましい / こういう環境で暮らせると性格もネジ曲がらないかもなあ、とか。毎朝の散歩とか、海に日が昇り、日が沈むうつくしさとか。波音と風の音とか。


稲村ガ崎まで歩いた頃にちょうど夕焼けで、そこが夕日のスポットなのだと夕陽に向かう人たちの様子を見て気づいた。



秋晴れらしく雲がたなびき、遠くに富士山の陰が見える。


それを目指して、あるいはもうすこし風と波音を愉しむためにもう少し歩いた。



けっきょくスラムダンクの舞台として有名な踏切の辺りまで歩いてそこから江ノ電にのった。もう暗くなって見どころもなく疲れていたので。


あとでiPhoneの歩数計を見せてもらったら2万8千歩ほど歩いていた。



こうやってあったことだけ記すと特に事件性もなくありきたりな「鎌倉から湘南の半ば(あるいは2/3ほど)歩いた」という程度のことなのだけど、自分的にはとても満足したし、たぶん歩きもせずぼーっと海を眺めてるだけでも同じだったろう。

そういうもので生まれる満足や感慨、思いのようなもの。そこから生まれるかもしれない選択や考えの修正のようなものは論理的でも合理的でもなく言語化しにくいものだったりもするのだけど、人の生というのはむしろそういうものが主にできているように思ったり。


きょう、なんだかたまらず幸せで泣きたくなる時間が不意にあったんだけど、その心情が詳しく把握できていない。わかるのはただ、橋の上ですれちがう電車に向かって車掌さんが軽く手を上げた、それが引き金だったってこと。


砂の感触とか風の音とか、波に映える光とか。




あるいは、日記的な内省を促す題材としては「あなたはもっと喋らなければ良いかもしれない(気を使う人なのでサービス精神でしゃべりっぱなしかもだけど、あなたとわたしの仲だったらもうちょっと黙っていてもいいかもしれない。きれいなかおしてるんだから黙っててもいいかも)」、とか、「(手を見つつ)つくづくやさしい手相してるよねえ。。でも運命線を見ると途中で本来持っていたものと変わっていて、でも未だぼんやりとして決まってないんだよねえ。。」、とか。


もうおっさんということもあるし特に気にすることでもないのだけど、敢えて日記の題材的に内省の材料とすると、「きれいなかおしてる」というところはフォローする際のサービスとして、「間が持たなくてサービス精神でしゃべる」というのは自分的には人に指摘してきたことなのでそんなに気にすることでもないかなあとか。付き合った人たちともあまり話さないでぼーっとする時間とかはあったけど、、んでも言われてみれば、彼女たちはよく喋るときの自分に底の浅さとか見透かし、あるいは彼女たちの求める幻想かなんかとのギャップのようなものを感じて離れていったということもあったのかなあ、とかなんとか。まあそのへんも「敢えて」で内省するとだけど。ネットなんかを通じてはじめてあった異性のなかでその後しばらくしてスッと離れていくひとたちはそういうところもあったのかなあとかおもったりする。まあだいたいは自分の無神経な言葉(このぐらいはいいだろう?的なものの領海侵犯)だろうけど。


むしろもうひとつの「まだ運命線がぼんやりで決まってないんだよねえ。。」というのはなんか示唆的だなあ、とか。あるいは彼女がそう望んだうえでのコメントなのかもだけど。まあそういうことでそういうことするひとでもないし、正直に見たまま言ったのかなあとか。


この歳になって決まらないっていうのもなんだけど、先立つものがないとシカタナイってのもあるし。。まあこのへんはぼんやりなのかなあとか思ったりする。


ブログのほうではトリアーの「ニンフォマニアック」について書いたのだけど、あとで思い返してみてそういえば書き残したことがあったなあ、とか。


父親が主人公の幼い時に樹の名前について教える場面、そして、性依存症を断つためにすべての「性欲を喚起させるかもしれないもの」を部屋から捨て去っても樹木の押し葉ノートは捨てられなかったこと。


おそらく主人公は父親との関係 - 父親への(直接的な性欲ではない / むしろ肉体的性欲ではないところでの繋がりや依存、心の拠り所、みたいなのがあって、その象徴や集約が押し葉のノートになっていたところがあった、、のかもしれない。


「のかもしれない」という歯切れの悪い言い方をするのは、そういった見方がファザコンな解釈に偏るから。そういったところもあったのかもだけど、セクシャリティは複雑な要素の関係から成り立つものだろうし、その内容も複雑なものとなるから。

樹の話に象徴されるもの、あるいは樹の押し花をみているうちに性欲が喚起されたのは、父親へのファザコンだけではなく、植物の性の官能性そのものが彼女のセクシャリティの一部となっていたところがあったからかも。


そういう意味で言うと彼女の性行為は植物のそれに近くて、各個体そのものになんらかの執着をもつ、あるいは性行為そのものになんらかの執着 - 特別な意味や幻想を持っていたのではなく、植物の繁殖と同じような感覚でセックスしていただけだったのかも。植物の接木なんかと同じような感覚で。だとすると、そこに既存の社会規範的な性規範の踏襲もなく、そこからの逸脱(アブノーマル)もなかった、ということになる。


むしろ愛という特殊な重み付けによって繁殖の指向を選択 / 決定していく人間種の文化のほうがヘンタイということだったのだろう。















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