プラスの方法と超越系

「愛のむきだし」を見てなんとなくビビビっとキたのでそれなりに感想書こうかと思いつつリンクするものが増えていってるので、それを一気に表出するために却ってハードルが高くなってきてる、っていつものアレ。

なので、簡単にブログ以前のメモ的に(ブログがウェブのログ・メモなのだからこんなのも変なんだけど。。)

「冷たい熱帯魚」まで見て園子温という監督が描こうとしてるものがなんとなくわかったような気がした。「愛のむきだし」から見てよかったというか、、「冷たい熱帯魚」から見ると猟奇的・アレゲなところだけが注目される感じだっただろうけど。

猟奇的・アレゲな場面というのは単なるモティーフで、それは描きたいものの素材にすぎないと思うんだけど、それ自体が目的にもなってるってのは虚淵玄なひとをはじめとする露悪というかアレゲ表現な作品でも共通するか。

「愛のむきだし」をはじめてみたときタランティーノをまず思い、タランティーノ的な情報の過剰性と混沌、というのは自分が言うところの「プラスの方法」だと思った。

情報量が過剰になっていってそれが人のキャパを超えるとき、社会的な常識のタテマエ・ペルソナが剥ぎ取られ生(たましい)の声が発せられる。

自分的には園子温監督が描こうとしてるのはそういうところかなとおもった。

「冷たい熱帯魚」だと後半の、主人公が猟奇殺人者に過剰に圧力をかけられホンネ・生の声が発せられていく場面。モラハラ的手法でアレゲが人を操作するときにカモに自ら罪を選ばせその罪悪感を背負わせ共犯者として仕立てるて方法があるけど、あそこで圧力をかけすぎ剥けすぎた。そういえば園監督はこういうアレゲがぢくぢくと関係のリアリティを既成事実にしていく過程を描くのがうまいように思う。あるいはそれも描きたいモティーフの一つなのか。


それとは別に「仮面が剥ぎ取られた場面で求められるホントのこと」みたいなので愛について考えたのがドストレートなホンネのとこかなと思うんだけど、そこで別件で「愛に生きる」(鈴木鎮一)を読み始めたのでそれも絡ませてエントリにしようかと思ってたらなんかハードル上がってた。。


そんなことを保留しつつ朝に情報遊びしてたらこんなの見かけて

宮台真司『愛のキャラバン』に見る、人間の2種類。 - (チェコ好き)の日記 http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/10/24/105812

宮台さんが言うところの超越系というのは自分が言うところのプラスの方法、内在系というのはマイナスの方法にあたるのかな、とか(マイナスの方法の場合は禅、修行、クン・フーとかそういう感じだけど)。


最近はマイナスのほうで最適化してるので超越系-プラスのほうでがちゃがちゃしてるひとたちみると( ^ω^)・・・(若いなあ)てなるんだけど、それとは別にこのナンパ師の本もおもしろそうだから読んどいていいのかもしれない。あと自分にも超越系がうんたらてとこはあるのだろうからそのへんでの相性とかもあるんかもなあ。。(そいや「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」でもそういうほうにイッちゃったアレゲ女が描かれていて魅力的だった(ex.コイケ、愛子



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