もがり

帰ってほぼすぐ暗闇風呂に身体全体で浸かって、水面に浮上して目を薄っすらと開く程度に、暗闇に目を同化してぼんやりと周りが感じられるぐらいになったところで失明したあとのねこの視界を想う。

帰ってすぐの行動が風呂にはいるだったのは思ったより身体が冷えていたからだろう。原付きで作務衣。肌寒いなと感じつつもその事自体はどうでもいいと思っていた。でも、ねこをなでつつ「(なにがしたい?)」と問うと「(とりあえず風呂に)」と答えがあったので。頭のなかで。

風呂に入るまえに鏡に映った顔を見て「この男は悲しい時、あるいは、このようになにかを失って調子が狂っているときにこのような表情をするのだな / これはある程度他の人にも悲しがってると思われたのかな?」とか。あるいはいつもより朗らかに、親切に振る舞っていたから人も親切に答えてくれたのかも。単に面倒が生じるのが嫌でいつもより親切に丁寧に、あるいは朗らかに振る舞っていただけなのだけど。なにか面倒が生じたときに割けるような心のリソースがない / おもったよりもダメージになって心労すると思ったので。「こういうのは世間的には空元気というのかな?」とすこし思う。ちなみに周りの人にはねこのことについてははなしていない。世間話的に話題されるのも嫌だったので。形式的なお悔やみはあるだろうけど。最初に動物病院の先生に報告しようとおもっていたのも理由としてあった。

あからさまに泣き顔とかそういうのでもないのだけど、いつもの憮然とした遠い目の表情に加えて目の端に諦観が表れていた。その表情、目の様子に最後の方のねこと同じように思って…。「痛いこと、苦しいことがあるけどあきらめて身を任せていたのか。。たしかに、そうせざるを得なかったのだものなあ」とか。どうしようもなく失われていることを嘆くのでも不満を表するのでもなく。でも、それ自体は悲しい。悲しがっても仕方ない / 悲しいと思うと余計に悲しくなって力を失うのであまり悲しがらないようにそちらの回路は切るようにしていてもかなしいのはかなしい。。



きょういちにちなんとかやり過ごせた。


表面的には、あるいは内面的にもそれほど重篤なダメージを受けてるようでもなく、自分でも「それなりにこなせるだろう(いちお気をつけつつ」とは思っていたのだけどなにかところどころミスが出ていた。そんなに決定的なミスでもなくほんのちょっといつもと違ってリズムが乱れる / 非効率になる程度のものだったのだけど。それが何度も続いて、ああ、これは危ないな(運転とか)、とか。


家族や愛する人を失った人たちが「…ちからがはいらなくなるんだ」といっていること。それ自体は知っていたけどこれがそうなのかなって。そんなに身体全体、感情全体で虚脱して鬱になったりというわけでもないのだけど。


あるいは単に、あらゆる場面で今回のことを想って気が散るからかもしれない。トラウマとフラッシュバックのように。ちょっとしたはずみに、あるいはなにも関係のない場面でそれが思い出されて思考や注意のリソースを持って行かれる。単純に移動すれば良い場面なんかで空白ができて、その空白に思考の余白が生まれ、、立ち止まると、空白が生まれると考えてしまう。



それでもなんとかきょういちにちをやり過ごせた





だったら、



 もう思う存分悲しがっても良いのかな?



明日は休みだし



明日明後日までには悼むことにも区切りを入れなければならないし。遺体の腐敗の関係で。



そう思っていたので帰って最低限しておくことを済ませ始める。


風呂にはいって冷えた身体を温めること。かんたんな食事の準備を済ませさっさと摂取すること。食事は数日前につくったトムヤムわけの分からない鍋の残りがあるので豆腐とごはん、卵なんかを加ええればかんたんにできる。


それを食べて、なんだったら少し身体のケアをしたらもうねこと一緒に寝床に入ってもいいのかもしれない。



それ以外に今日なにかすべきこと  / したいことがあるのだろうか



なにを見ても空虚に感じられるし無駄に思えるのだろう。食事をすることも無駄に思えているし。なので、世間のあらゆることが無意味、あるいは、意味が失われて感じられている。


自分の感情の意味もすこしわからなくなる。


信号待ちで空白が生まれて、いつもはとらない姿勢、原付きのタコメーターによりかかるような形で信号を待ってる自分に「しんどくてそういう姿勢をとるの?あるいは、しんどい / かなしいということの自分的なアピールや演出?(また自分に酔ってるの?)」ともうひとりの自分が問う。


「そういうつもりもない、ただ自然に、こうしたほうが楽だったのでそうしたんだ」

「ふーん…ところでその姿勢はネコが最後の方でとっていた姿勢だね。そうするとわかるだろうけど呼吸がほんとに苦しくて筋力的にも苦しかったからうつぶせ、前のめりでよりかかるような姿勢をとらざるをえなかったんだよね?」

「そうだね。ねこを最後に楽にしてやれなかったね」


そのあとまた安楽死のことに思考がつながりそうになるのを信号の青が妨げその場を辞する。





お世話になった動物病院に行って昨日-今日のことを報告する。


「昨日の明け方黒いのを吐いて、それ以降よくなるかとおもってたら昼前にまた吐いて、それ以降は首がだんだんと反っていって、呼吸が苦しそうにバタバタするので姿勢補助をして…。

なんとかやり過ごせるかと、これをやりすごせたらまえにあったときのように回復に向かうのではないかと想っていたのだけど」


「ああ…心不全だったのだろうねぇ、、それは」



そのあと自分の初期の選択の誤りと、その後の誤りがねこの苦しみをここまで長引かせたのではないか?と語っていて声が詰まり涙が少し出る。


病院の先生には「○○くんはよくやったとおもうよ。よく看病したと思う。自分を責めてはいけない。それではねこちゃんも天国へいけないよ?」と慰められそれを受けつつ、頭の片隅で「それが君の感情が動くポイントなのだね?」と声がする。



それがきみの(ソレガキミノ)感情がうごく(カンジョウガウゴク)ポイントなのだね?(ポイントナノダネ?)


心の琴線とか龍鱗とか、ナノダネ?


自責を感じるようなことが


自分を必要以上に責めることが




それは立派に見えるけどそれ自体がひとつの演出とかナルシシズムなんじゃないの?

悲劇に酔ってるだけ、なんじゃないの?






そう問われつつ「じゃあ演出とか演技とかじゃなく自然に悲しいってなんだ?」「ソモソモ『かなしい』ってなんだ?」とすこしおもい離人の門が開きかける。



世の人は失うこと、失って調子が悪くなることをただしく感じて消化するために形式的に「悲しい」を踏襲する。


葬式というのはそもそもそういうもの、そういう殯(もがり)の儀式であり現代のソレはその形式の残ったものなのかな?とも。

文化が違えばソレは泣き女なんかの形で表現され、それによって「喪失」は「悲しみ」に転化され昇華されて減じていく。


それがうまくいかない / 自分で構築・消化できなければいつまでも喪失の不調子は残っていくのだろう。


「連れて行かれる」という風に表現されるけれど。





「涙を流さなければいけない」

「いま、すこしでも涙を流さなければいけない」



次の日はバイトだったのであまり感情の堰を切って予測不可能になるのをセーブするためあの時点で泣かなかった / 泣けなかったというのもあったのかもしれない。

あるいはたんに未だ「死」という既存の概念でそれを受け容れるということができてなかったからかもだけど。「死」→「悲しみ」→「涙」という回路と形式。


そう想ってかこぼれなかった涙と感情が却って詰まって調子がわるくなりそうにも想って昨日のうちにすこし泣いた。ぐんにゃりと抜け殻になったねこを小脇に抱いたときに。「そのこと」を少し受け入れたときに自然と涙が出て泣いた / 泣けた。

排出されてすこし楽になったようにも思えた。



朝、目覚めてすぐねこを腹の上に乗せて撫でつつやはり涙が出た。

あのときなぜ涙が出たのだろう?なにを思って涙が出たのだろう?とふりかえるに思い出せないので朝のメモを見る

世間的には「あらためてねこがしんだことに直面したから」ということになるのだろうけど。  そういうものなのだろうか。



抱きかかえたときのネコの身体があまりに軽いこと    に?

硬直してしまったねこの身体からあたたかみが消えていく / まだ残っていること           に?



死してなお毛並みが気持ちよい / 従順に振る舞うねこの健気さ        に?






          現在、膝上に抱えたネコの腹がときおりまだ動くように見える。


四肢は硬直し、断続的に洟水がたれ、瞳がだんだんとかわいて潰されていっている(魚屋の魚の目になっていってる)  けれど


お腹の当たりの毛並みの気持ちよさはかわらず、あるいは、この姿勢をとることでかつての固太りで筋肉質なお腹周りが再現されて。




      あれ?



 これは前にも日記したような気がする


   あるいはTwitterでつぶやいたのか




だんだんと思考がぐるぐると同じところをまわりはじめて、いる?



おなじことをなんどもなんども

おなじかんじょうをなんどもなんども



そのたびにねこのおなかがうごいているように

そのたびにねこのししがかたくなっているように








とりあえず明日


明日までに受け容れることができていたら川原に埋めに行こう

見晴らしの良いところに

人の目につかないところに


(そういえば以前、うちの近所で轢かれた外猫を埋めに山に登った時は「桜桃の味」のことを思っていたのだった。あのときはこんな日がくるとは思っていなかったけど)



自分は

こんかいはじめて「死」というものを実感するのかもしれない


いままでも爺さんとかの家族の死はあったけど、それは自分の一部としてコミットメントした「家族」ではなかった。なので「死」というか、死の形式自体もなんとなくそらぞらしく感じていた。葬式やその周りの母や叔母、おばあちゃんの様子も。


でも、


こんかいはじめて失うということが、近いものがなくなるということが実感されたのだろう。

それは「悲しい」というより「ちからがはいらなくなる」「なにか、身体やこころの部品がなくなってしまう」ということ

逆にいうと、それが生じるということはこのコが自分にとってかけがえのない一部だったということなのだろう。いまさらいうことでもないだろうけど。

だから

「そんなに悲しがることはない」というのともちょっと違うのだ

実際に肉体の一部が欠けたとき「そんなに悲しがることはない」とかいわれても、、というのと同じように

心の一部が欠けたとき、その不調子、あらたなバランスに慣れるためには時間がかかる。

それとやりすぎた自責の念とはまた別のはなしではあるだろうけど、たぶん、自分の場合そういう形で自分の内部をえぐって解体しないとうまくtuneできないのだろう。

こういった日記が自分なりのもがりのひとつでもあるように




思えば「ネコが好き」という自分の属性もこのコと暮らし始めてからだったのかもだし、「ネコが好き」というよりはこのコが好きだったのかもしれない。


いつまでもおてんばで、自分にとっては娘のようなこのコが。






とりあえず明日


明日までに気持ちの整理がついたら川原に



そのためには走ることも必要かもしれない


十分に走り尽くして、涙の代わり / 同様になにかを出し切ることも



そうすると明日のうちには埋めるとかも無理なのかも



でも、気持ちの整理としてもそのぐらいは必要なのかも






わからないけどとりあえず明日


明日までに





そのためにいまから十分にねこを抱いて想うのだ


このコとの日々を






























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