「柑橘類と文明」、「芸術起業論」を読み終わって

ようやく更新もし終わったので図書館に返却する前に引用では補えなかったところを振り返る意味も込めて記念日記


柑橘類と文明 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/834468


自分の興味もあるのだろうけど結果的に一章の「奇妙な果実(ルネサンス時代のトスカーナ州の柑橘類コレクターたちの話)」とシチリアのマフィアの話からの引用が多くなったのはこの本の一般的な魅力もこのあたりに集中するのかなあ。


というか、この本の魅力というとそういった知らなかった知識的なところというよりは紀行文なところのように思える。


著者はもともと「若い時からイタリア式庭園について学び、その文化と歴史について四冊の著者があるほか、日本、ポルトガル、ウェールズ、カリブ海の庭園についても著書がある」とのことなので庭園の専門家だし、そういった意味でこの本の最初の興味はルネサンス期イタリアの庭園における果樹コレクションということになるのだろう。そこからの柑橘類とイタリアの歴史な話への派生。


紀行文的な魅力な部分も残したかったので後半に少し引用した。



海風が背景にあるような南イタリアの島の強烈な夕焼けに向かう夕べ。果樹園の白亜の壁に血とオレンジを想わせる夕陽がかかり、かつての栄華が忍ばれる。「大胆で」「美しい」暴力と血と頽廃と、それらの没落の歴史。


紀行の楽しみというのはそういったものかなと思うにおいしいものもそのひとつでここに載っていたレシピはちょこちょこつくってみたいとおもった。リモンチェッロなんかはすぐにできそうだし、似たような感じで柑橘類の皮が再利用できるということなら柑橘類を食べる習慣をつけてもよい。特にブラッドオレンジはがん予防なんかにも良さそうなので習慣づけたい。ジュースでも良いので。


あと、アールグレイにレモンを垂らして飲むのが好きだったんだけど、ベルガモットの香料をつけたものがアールグレイということに気づいて期せずしてそれらしいことしてたんだなあとかおもった。そしてオー・デ・コロン。


オー・デ・コロンなんかはもはや香水の代名詞的なものになってるのでイマサラという感じで特に意識したこともないのだけど、そういえばかいだことがなかった。そういうのつけてる人もいなかったし。

ナポレオン、ゲーテの時代にちょうどできたそうで彼らもこれを珍重したとか。それまでの香料とは全く違う質だったので。とくにゲーテはこの瓶に紙を浸して執筆時にその香りが漂うようにしたのしんだとか。ゲーテの場合は若き日のグランドツアーでイタリアにいったときの思い出もあったのだろうけど、ほかのヨーロッパ人にとってもイタリア、あるいは地中海沿岸の島嶼というのはそういう土地だったのかもしれない。


とりあえず4711なら安く買えるようだしその辺にころがってそうだからそのうち。ちなみに4711はジョヴァンニ・マリーア・ファリーナがつくったオー・デ・コロンを真似るためにファリーナの家号を金で買ってつくられたもの。なのでオー・デ・コロンの前に4711と付く。でも品質的には現在、本家オー・デ・コロンと遜色ないものになってるみたい。

あと、ベルガモットにもがん予防だかなんだかの作用があるそうなので。まあああいう香りというのはそういうものなのだなとか思う。だいたい自分が好む香りというのはそういうものなので。ハッカ油とかも。


リモンチェッロとかの果実酒用にそのうちハードリカーを買おうかと思うも「酒っていうか精油を生成したいなあ日常的には。。でも蒸留器がないと無理かな?」とちょっとぐぐったら蒸留器はけっこう高かった。なので、できあがった果実酒を薄めてスプレーに入れてとか試そうかと思うも。。まあ酒臭くなるか。



あと、この本で受けた「あ、こんなのあるんだ試してみよ」的刺激としてはキノットのこと。キノットはかぼす?大の小さな苦い柑橘類なんだけど、もともとは砂糖といっしょに漬け込むだか煮込むだかしてるといいかんじの刺激味が出ていたもの。それを受けて「コーラに替わるイタリア産の清涼飲料水」として売りだそうとしたところもあったようだけどマイナーにとどまってる。サンペレグリノなんかはこないだちらっと見たけど、ああこれかあ、とおもった。まあこれもそのうち試そう。



ついでに読書メモとして。村上隆さんの「芸術起業論」をいちお読んだ。


ほとんど記すことのない本で、「村上さんていうと作品的には興味ないけど現代アートをビジネスとかプロモートしていく方法や意志は尊敬できるなあ」とおもってたのでそっちのほうできちんとかいてあったらよかったんだけど一代で成功した中小企業の経営者の一代記根性論みたいな話でそんなに見るところはなかった。そんなことおもってたら表紙にしっかり「超ビジネス書」て書いてあるし。。


要約すると、

・アートとか言ったって国内でもけっきょくは狭い市場で人脈でつながってるのだから、国際的にも人脈、とくに富裕層のそれにつながれば良いだけど俺はそれをやった。富裕層の人脈と欲望に繋がれ

みたいな感じだった。それはそれで一理あるのだろうけど、それに関わる方法論がきちんとかかれてなくて、けっきょくは「アートフェアで男芸者的にふるまってたまたま当たった」みたいな感じだった。

もちろんそこに辿り着くまでに努力と根性と「諦めない」てとこがあったのだろうし、小山登美夫さんなんかはその執着と偏執こそが村上さんの持ち味みたいなこと書いてたようにおもうけど。


なので、努力もせずにヲタクをパクってたまたまアタった、っていう言い方も変で、実際海洋堂に等身大のフィギュアのあの制作を依頼した時には三顧の礼というか、何回も大阪行きを繰り返してバカにされつつもようやく作ってもらったみたいだったけど。


まあそういうところからすると「芸大でただけでくすぶってたまに美術手帖にのったぐらいで喜ぶ自称アーティストなんて甘っちょろいガラパゴス的自閉自意識だ」「芸大の価値観に終始し世界を見てない自慰にすぎない」みたいなことになるのかなとか思うんだけど、それもまた極論で、「だったらみんなアメリカのITバブルお金持ちのわけのわからん価値観に合わせたものつくればいいの?」「富豪の愛人がよくわからん価値観でいいわぁっていったら偶然売れるようなのに任せる、とか?」思ってしまう。

なので、自分的には李禹煥みたいな、あるいは奈良美智みたいなかんじであくまで「自分の作りたいもの」を中心に作りつつ、そこに世間の需要や関心も兼ねつつマイナーにすり合わせていく、結果として爆売れでもないけどある程度暮らせるぐらいのお金が入る(みなさんのマイクロペイメントで)とかが良いのかなあとか思うんだけど、そういうのも李禹煥や奈良美智に元々のブランドがあったからかなあとか思ったりもする。まあそれ以前に実力もだけど。


んでもまあ「ほんとにトップで、そのトップさはその道の玄人の一部たちにしかわからない」みたいなレベルのものに富と評価が集中してしまいつつ、そこでお金を払ったお金持ちたちは箔のために金払ってるだけでほんとにその作品の価値はわかってない(結果として中国のアート市場みたいな中身の無い投機が生じる)、みたいなのに対して、もうちょっと下のミドルなレベルでの「ふつーにうまい」ひとたちの作品が売れていく、マイクロペイメント的に支援金があつまってく、みたいなのが広がってもいいかなあとか思ったりする。


まあそういう意味だとnoteの有料投げ銭とかもそういうのなのだろうけど。


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